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濃度や強度

1 

先日初めて会った役者の方(L氏)とした会話。彼は映画を撮ろうとしている。自分のこれまでの人生とフィクションを混ぜたものだという。その後、一番好きな映画の話になった。

L氏「クストリッツァ…」

高倉「クストリッツァですか。ああ、それを聞いたらなんか、さっきの、Lさんが作ろうとしている話と何か繋がりました」

L氏「いや全然違う」

高倉「違うんですか?クストリッツァって、ずんとくる現実と、飛躍したフィクションが乱舞する感じじゃないですか、だからちょっと通じるものがあるのかなと思って」

L氏「んー、でもクストリッツァは無理だよ。僕らはあんなに強く生きてない」

高倉「それは日本の観客がああいうものを、受け止めないだろうということ?それとも作り手が?」

L氏「両方。僕らはあんなに強く生きてない。もっとずっと脆い。でも生きてる」


2 

…『四つの自由』という映画を見たところが、妙に印象に残りましてね。…戦争の記録映画なんですけれども、…ムッソリイニはスイスに逃げようとするところをつかまって、殺されて、愛人と二人の死骸が映画にうつるんです。あの大きい顔のムッソリイニが、目をむいて死んでいて、少し腐りかかっているように見えるんです。しかも、その二人の死骸が逆さまにつるし上げられる。愛人は上衣の裾がめくれて、腹が出て、胸のところでとまるんです。(中略)むごたらしい写真で、かなわないと思ったんですが、しかしこの場合、かなわないというのには二つの意味があるようです。一つは、無慙で、残虐で、見ていられないこと…。もう一つは、ムッソリイニのみにくい死にざまに、生の執着というよりも強い、生の徹底というようなものを感じて、日本人はとうていかなわないと思ったんですよ。えらいものですね。(中略)われわれみたいに、茶室をつくったり、冬の嵐山を見たりしていては、だめですね。 (川端康成「虹いくたび」)


「ここにきてから会った人達、乙彦も含めてみんなに思う。薄味だなって。私、浮いちゃうのよ。人ってもっと、変で薄汚くて、どろどろしてて、情けなくて、高貴で、無限の断層があるっていうかんじ。って、ずっと思ってた。人生っていいなって。恋っていいなって。女っぽいふりしたり、強かったり、弱小だったり、大げんかして声をからしたあと並んで月見たり、同じことしてるのに日によって感じたり感じなかったり。泣いたり、怖がらせたり。でも全部自分なの。いつも好きな人に会いに行くときは、何度でも、誰にでも、繰り返しおしゃれして出かけてくのよ。理屈はないの、本能なのね、きっと。」(吉本ばなな「N・P」)

 


 現在の日本にいて、日本人に生まれて、烈しく生きることには限界があるのかな。繊細なだしの旨みを強みにやっていくしかないのかな。ないものねだりで憧れてるだけだろうか(憧れるのは大得意)。

 無理かもしれない。でも毎日、目の前の全ての人やもの、自分たちを貫く時間、からだの中で動き続ける欲望絶望を直視して、本気で声を聴いて応える…そういうことを続けていけば、もしかしたら何十年経った頃、私もムッソリイニになっているかも。(語弊!)


#クストリッツァ #映画 #川端康成 #吉本ばなな #虹いくたび  

#N・P  #文学





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