五月

 深夜、疲れて帰って、twitterを開いて癒される。過去の自分の傾向でいろいろ表示されるんですよね。だったら過去の自分、ありがとうと言う感じだ。お前は最高だよ。ガメ・オベールさんのブログやツイートがここ数年は常に好きだけれど、それ以外に流れてくる、傷ついたひとの呟きもすごく私を救ってくれる。他人の不幸は蜜の味なんではない。弱音を吐いてはいけないと、クールに軽やかに何でもこなしていけなければならないと、やっぱりどこかで理想を掲げ自分を変えようとしているけれど、「私は傷ついている」「悲しい」「もう立ち上がれない気がする」そんな誰かの心からの呟きには、純粋な癒しの力があって、感謝の気持ちが湧く。SNSって負の側面も多くって、本当は一切やめたほうがいいよねって思う時もあるけれど、こうして人の悲しみに癒される時には、とても優しくて健全な場所だと感じる。
 身近な人には笑っていたいもんね。

 最近は女性監督の上映が多く、最近見た映画も『TITANE』『アトランティック』、シネマヴェーラでの特集<アメリカ映画史上の女性先駆者たち>、シャンタル・アケルマン映画祭と、全部見切れないのが悔しくて泣くくらい。全部よかった。作品が掛け値なしに素晴らしくて、しかもその監督やカメラマンが女性であるとき、体の底から励まされる感じがする。
 むかし、矢野顕子さんがテレビ番組の中で、あんまり女性の曲をカバーしない理由は「女性の曲には<私>しかいないの。一皮剥いても二皮剥いても私、私、私」と言っていた。そうなんだ、と思った。映画学校にいたとき、講師である男性の映画監督(すごくいい人だったが)が「(そのクラスの)女性の書くもの(企画とかプロット、脚本)は客観性がなくてわかりにくい」と言った。カチンと来て「そういう括り方は嫌」と言ったが、「別に悪意はなくて傾向の話だから」と言われた。(まあ実際、そのときクラスにいた女子たち、<私、私、私>だったんだろうとは思うが…。)あと、私が育ってくる過程の中で、「女は一つのことを極めることができない。向いてない」という言説はあらゆる場所で目にしたなあ。身近な人が口にしたこともあった。そんなことの積み重ねで、女である自分には、できない、と言う気持ちが消しがたく私の中に残って、一方で「いや普通の女には無理かもしれないが、私は女の中でも特別だから、できるんだ」みたいな歪んだ自意識みたいなものも生まれて、どっちもかったるいものだった。
 今ようやく、いろんな女性監督の映画を浴びるほど見られるようになって、その映画としての純粋な素晴らしさを堪能できて、
 女に生まれてもこんなに遠くまでいけるんだ
 ごく自然に
 というそんな本来当たり前だった事実を肌で感じられて、とても幸せ。
 今までたくさんエネルギーを無駄にしたけれど、もうどうでもいいことは振り切って、大事なことを見据えて真っ直ぐ進んでいこう、と思える。世間は私を「女性」と言って、扱ってくるけれど、それも気にしないで、本来私が生きたかったみたいに、自分の好きなこと、重要なことだけに体重をかけて。

 ここ数年、私はフェミニストだった。
 もうそれはやめたいなと思うようになった。
 元々は(当時多くの人がそうだったように)フェミニズムに抵抗があった。私の場合、その理由は、フェミニストになる場合、女という性に自分のアイデンティティを置かなければならないと感じ、それがすごく嫌だったのだ。内面化されたミソジニーもあったかもしれないけれど、私は、「女性」というアイデンティティに居心地のよさを感じたことは一度もなかった。
 しかし世間は私を女性として扱った。そうして、当然、女性が受ける差別、不平等を被った。男女とか関係なく、自由に生きたくても、それができる土壌ではないのだと思い知った。だからフェミニストにならざるを得なかった。その構造から自由になるためには。
 状況は改善されても、未だに平等は叶うこともなく、毎日胸が痛むけれど、
 今、私は自分のために、フェミニストであることをやめよう、と思うようになった。
 これは私の自然じゃない。
 世の中に数ある重要な事柄の一つだけれど、私の魂レベルで言ったら優先事項じゃない。もっと大事なことがある。もっと大事なことにフォーカスしないと、もっと自分を自由にしないと、私は死ぬ。そう思った。

 『アトランティック』や『二重結婚者』や『アンナの出会い』や『ジャンヌ・ディエルマン』の中の女性たちを見ていて、思ったのです。
 私には私しかいない。
 傷ついてることを理解して欲しい、がんばってるから褒めて労ってほしいと他人に求め、それが得られないと拗ねる、私はそんな人間だったが、そんなのは幼稚なだけでなく本当にエネルギーの無駄遣いで、厳然たる事実として私には私しかいないのだから、無理しないよう管理することも、それでも頑張り過ぎてしまった日に冷静にケアをすることも、人に嫌われようが自分の気持ちを優先することも、どうやら正しいけど自分にとっても気持ち悪いなーと思うことに背を向けるのも、後悔する可能性が高くても現在の自分の感じること、欲望、可能性を信じて、自分という存在を全力で表現させるのも、全部、私がやらなければいけないことで、それ以上に大事なことはない。

 だから見えないだれかに体裁を取り繕うのはやめる。
 亡霊はしぶとく消えないけれど
 私と、<私の神様>に向けて、生きていく。

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