統一的な心理学、グローバルな心理学があるべきだ
1976年1月17日 午後 荘子講堂にて
あるサニヤシンが、人間の心理的成長に関連して、ここでOshoと何が起こっているのかを尋ねた。成長に関係しているのかという質問がありました。
私たちは、東洋と西洋の間の
新しい統合を提示しようとしている。
東洋の方法は、より個人主義的で、
より内向的で、より孤独や孤立、そして人間に関心がある。
それらは瞑想的な方法であり、
人とその完全性に関心がある。
集団的な方法ではない。
西洋の方法はすべてグループ・メソッドであり、
より外向的で、コミュニケーションや人間関係に関心がある。
西洋の方法は愛に関心があり、東洋の方法は
瞑想を重視している。
この2つは人間の意識の両極である「愛」と「瞑想」だ。
瞑想とは、あたかも自分だけが存在するかのように、
一人でいることを意味する。
愛とは、自分は存在せず、
相手が存在するということだ。
他者との関係においてのみ存在し、
それ以外の存在はないかのように。
これらは2つの極意だ。
別々に考えると、どちらも極端になり、
どちらも危険だ。
東洋では、最初の極端である瞑想を試みた。
それは人生を否定し、逃避するものとなった。
貧困と醜さを生み出した。
東洋では科学の進歩がなかったが、
それは誰も社会に関心を持たなかったからだ。
何かに興味を持った人は、いつも逃げてしまっていたのだ。
西洋では、社会が進歩している。
生活水準が向上し、
より豊かで快適な生活を送ることができる。
豊かさと快適さ、便利さ、健康、そして生活が充実している。
しかし、彼らはもう一方の極端に向かっている。
個人はどんどん消えていくる。
この2つのことを別々に考えると危険だ。
なぜなら、人生は両極に存在するからだ。
ここで強調されているのは、相反するものは存在せず、
補い合うものしかないということだ。
だから、瞑想と愛は相反するものではなく、相補的なものだ。
すべての宗教は生命を肯定するものでなければならない。
人生は瞑想的なものでなければならない。
だから、私たちは総合的なものを作り出そうとしているのだ。
それは難しいことではない。
この統合は、ここに来ている人々の中にあるのだ。
新しい統合が試みられている。
多くのことがそれにかかっている。
世界的な心理学が誕生しなければならない。
東洋はある意味では成功したが、ある意味では失敗した。
西洋がある分野で失敗し、別の分野で成功したように。
今や、このような東洋と西洋の二分化は、
もうあってはならない。
統一的な心理学、グローバルな心理学があるべきだ。
そこには東洋も西洋もないが、
両極が出会い、解消されるのだ。
私たちの仕事は人間に対するものだ。
それは学術的、理論的、哲学的なものではない。
それは絶対的に個人的で、
実存的なものだ。