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サード・プレイス、らしきもの。

近くの公園の花壇の前がちょっとした溜まり場になっていて、夕方ぐらいに通りがかるといつも大人たちがタバコを吸っている。ヤロウたちではなく、男女入り混じる大人たちが。まあ確かに、うちの近所は適当な喫茶店もないし、あるのは保育園と老人施設と住宅だけという面白くない場所だ。喫茶店があったとしても、その大人たちはコーヒー代を渋って入らないだろう。そんな雰囲気の人たちだ。中にはわざわざワンボックスカーを横付けしてタバコをふかしにくるひともいる。正直やめてほしいとは思うけど、彼らだってなんかしらほっとする居場所がほしいわけで(柄は悪いけど犯罪行為はしていないわけで)誰からも排除される謂れはないものね。

彼・彼女らを目にするたびに、サード・プレイスというものについて考えてしまう。ちょっとしたバーとか読書のできるカフェなんかをサード・プレイスにできる人はほんとうに限られた都会人で、そもそも自由にできるお小遣いがなければ利用することもできない。そんなものはお金のない人からすれば「気取った人が行くいけ好かない場所」でしかない。うちのほう(板橋)で無料で開放されている場所は図書館、公園、スーパーのベンチぐらいなもので、そこでタバコを吸えるとなったら公園しかない。彼らが花壇のまえにちいさく固まっているのは、一応子どもたちに配慮してのことにちがいない。だだっ広い板橋ではあるが、彼らの気持ちを察するとそんなに自由な場所ではなくなっているのだ。

歩道橋の決まった場所に、いつも菓子パンの袋と空き缶が捨ててある。これも「俺のテリトリーだからな」「たしかに俺はここで飯を食ったからな」という縄張り的主張なのかしら、と思ったりする。歩きタバコとポイ捨ても、「俺がムカついているのわかりますか?」みたいな、何かしらの意思表示なのかもしれない。わたしはこういうゴミのポイ捨てに対して本当はめちゃくちゃ怒っているんだけど、なにか、そういうことでしか主張できないところまで追い詰められている人、そこにしか居場所がない人なんだと思うと、行動を取り締まるというのはほんとうの解決ではないよね、というところにどうも行き着いてしまう。社会が(表面上)上品になると「場所がない人」「お金がない人」がすんごい目立つ。そしてその(表面上)上品な社会も、みんなが貧乏になったらどうなるかわからない。

300円ぐらいのコーヒーショップも、客層はやっぱり怪しいことがおおいけど、街の治安維持には一役買っていると思う。最近のわたしは新宿のベローチェが好きだ。いつも居合わせるお客さんの誰かから「行くところのないおばさん」と同情されているかもしれない。ほんとうにその通りで、ほんとうにどうしようかと思っている。


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