さもありなん
「さもありなん」。
以前いた職場の上司の口癖だった。
「当然そうなるだろう」「そうするのはもっともだろう」といった意味のようだが、自分から見た「さもありなん」は、意外とそうじゃないことで世の中が埋め尽くされているんじゃないだろうか、と思える境地にここ最近になって落ち着いた。
例えば、『報告』『連絡』『相談』のいわゆる【ホウレンソウ】は、企業に勤めたことのある社会人なら、誰もが当然できるものだと思っていた。
だからこそ、上司にそれをしないのは部下の怠慢であり、叱責されても仕方ないという考えだった。
ところが、この【ホウレンソウ】をしない人が少なくない。
この事実をどう受け止めるべきか。
もしかすると、「やらない」のではなく「できない」のではないか。
そう思えてならないのである。
他にも、打ち合わせで協議した決定事項をいとも容易く覆す者がいると、「一体何様なんだ」「これまでの時間を返せ」と憤りたくもなる。
だが、その一方で、当人は「そのようなことまで決めていましたか」と悪びれた様子もなく平然としている。
社員が集まってする会議であれば議事録をとっているが、そうでないなら、ある程度はお互いの信頼関係に基づいて行うものだという認識が間違いだということに、何度か繰り返されることによって、あとあと気づく。
思い返せば、以前の職場では、こんなこともあった。
日本語教師なら誰もが知っている定番の教科書『みんなの日本語』を使って、初級レベルの学生に日本語を教えるのは、専任講師ならできて当然と思っていたのが、「私は初級の授業ができないので、上級クラスでしか教えたくありません」と自己顕示欲をたっぷりと露出させた専任講師がいて、唖然とした。
だが、今になって思えば、初級の授業がやりたくなかったのではなく、本当にそのスキルがなかったのかもしれない。
そのように、拡大解釈ができるに至った自分を少し褒めてやりたい気分だ。
そうでもしないと、この社会に押し潰されかねない。
人は、簡単に人を肯定したり否定したりする。
しかし、人間関係における問題は、〇か✕かの二者択一では上手く解決できないのが普通だ。
社会の荒波を上手く乗り越えるために、やはり、自分を見失うことなく、寛容な心で、何事にも謙虚に励みたい。
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