見出し画像

【ベトナムエッセイ#1】ちょうどいい距離感

ソーシャルディスタンス、社会的距離、この言葉をよく耳にするようになった。フィジカルディスタンス、身体的距離、この方がわたしにとってはわかりやすい。

社会的隔離措置というベトナムで実施された政策では、極力外出しないこと、外出の際はバイクでも車間を2m以上開けることが推奨されていた。スーパーでもどこでも、2m以上間を開けなさいと言われている間、ほとんど外に出なかったので、ベトナム人がこの距離を正確に守っていたかは定かではない。

画像1

ベトナム人はもともと人との距離が近い。パーソナルスペース、対人距離と言った方がわかりやすいだろうか。他人に近づかれると不快に感じる空間が、日本人と比べるとせまいのだ。ベトナムに限らず、それはアジアの各地で思う事だが、友人とのおしゃべりに限らず、彼らが他人と取る距離はぐっと近く、物理的に近づくだけではなく、心理的にも私的空間にずかずかと中に入り込んでくるような、そんな場合もある。


例えばバスに乗ると、隣に座ってくるおばちゃんの距離が近い。おばちゃんの太ももがピッタリとくっついてくる。多くの場合、化学繊維で作られたテロテロのドーボー(襟なしパジャマのような、ベトナムのおばちゃんが着ているセットアップ)を通して、おばちゃんの体温が直に伝わってくる感じ。窓を開けっぱなしのミニバスなんかでは、特にじっとりじわじわとおばちゃんが染み渡ってくるような気になる。

間を空けようと、気づかれないようにそっと離れるが、いつの間にかじりじり攻められて、また気がつけばぴったりくっついている、の繰り返し。最終的にはもうこれ以上詰められません、という場所まで追い込まれてギブアップ。攻防戦、全敗中。


かれこれ10年ほど前、バス停でいつ来るかわからないバスを待っていた時のこと。バス停にはおばちゃんとわたしの2人。10〜15分おきに来るとされているそのバスを、既に30分弱待ち続けていたわたし達の間には、不思議な連帯感のようなものが生まれていた。長椅子に2m程の間を開けて座っていたわたしとおばちゃんであったが、わたしが座っていた場所に直射日光が当たるようになると、おばちゃんがこっちに来いと手招きをした。呼ばれるままにおばちゃんの近くへ座って、それでも無言のままバスを待ち続けること数分。

暑さと排気ガスでボーッとしていたのだろう。気がつくとおばちゃんがさっきより近い位置に座っており、モゾモゾっと動いた。その瞬間、頭皮にプチンと痛みが走る。ハッとしておばちゃんを見ると、手に一本の白髪を持ち、満面の笑みを浮かべている。どうだ、取ってやったぞと言わんばかりの表情。とっさの出来事に何と返せばいいのかわからず、口から出たのは「Cam on co (ありがとう、おばさん)」という言葉だった。


先日バスに乗ってちょっと出掛けた時のこと。マスクをしなければ乗車できない決まりがあるので、乗客は全員マスクをしている。ラッキーな事に前から2番目の右側の席が空いていたので、チケットを受け取ってささっと座った。わたしの前には学生さんだと思われる若い女子が2人。わたしから通路を挟んで右側におばちゃんが1人。その後ろにおばちゃんとおじちゃんのご夫婦が乗っていた。

女子学生達は楽しそうに、でも、嗜みがある程度の小声でおしゃべりをしていて、仲が良さそうだった。わたしが乗り込んだ3つ先のバス停で1人が先にバスを降りた。振り返り、手を振る残された女子学生。最近増えたワンマンバスでは前から乗車、後ろから下車する場合が多い。そして、完全に止まっていないバスの開いたドアから女子学生が降りると、再びバスが動き出した。バスがまだ扉を閉めずにゆっくり前進すると、横のおばちゃんが突然大きな声で残った女子学生に話しかけた。

「娘さん、そのニキビ、病院へ行けば、数十万ドンで治るわよ!」

えっ?と思って前を見ると、友人を見送るために振り返っていた女子学生の、そのマスクからはみ出た両頬は真っ赤なニキビで埋め尽くされていた。

いえいえ、結構ですと言わんばかりに、手を振り首を振り前を向く女子学生。すると、おばちゃんの後ろに座っていた夫婦がその話題に食いつき、どこで治るの?いくらかかるの?と大声でおしゃべりを始めた。

なんというお節介!

思春期真っ只中の女子学生の心を踏みにじるかのような一言にも関わらず、その場の空気は至って普通。いつの間にか会話を終えたおばちゃんと夫婦は、何事もなかったかのように景色を見ていた。わたしだったら怒りや恥ずかしさで真っ赤になりそうなところを、女子学生は我関せずという顔で外を見ていた。心の内はわからないけれど。


相手に興味を持っているからでもなく、善意なのか?ただ知っていることを伝えただけなのか?遠慮もなく悪意もない、日本人とは違うそのお節介の焼き方に、ベトナム人との距離感の違いを感じる、そんな話。

ちょうどいい距離の取り方は未だにわからない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?