夢を叶えるということ
ろくにドラゴンボールを集めずに「いでよ、シェンロン!!」と叫ぶ事が日課になりつつあるシーズン野田です。
もちろん、いでてくれたためしはなく、豚のキャラクターに「パンティが欲しい!」と願いを横取りされた事もありません。
よく考えると、シェンロンが召還されるときって、かなり目立ちます。急に天気が悪くなり、雷が落ち、なんせ龍が出てくるわけですから。
そんな環境の中で、自分の願いを聞こえるように大声で言わなければならないので、あまり恥ずかしい事は言えません。
世界平和を願えばバカに思われそうだし、お金が欲しいと言えば強欲でチンケな人間に思われそうだし、かわいい彼女が欲しいと言えばスケベで寂しい野郎だと哀れまれるし、「夢が時間を裏切りませんように」といえば、槇原敬之だと思われる。あ、松本零士か。ネタが古くてすいません。
とにかく、願いを言うのって、恥ずかしいことなんですね。
けどね、やっぱり言わないと叶わないんじゃないかと思うわけです。
ただ「言う」っていうのはね、まぁ、そのものをズバリを言うってことじゃなくて、願いを叶えるために何をしているかってことですよね。
例えば、自分は将来有名俳優になってカンヌに行きたい!って言うとさ、やっぱり笑われますよね。
「は?カンヌ?神奈月のライブでも行っとけ!」
って。
でも「英語を必死で覚えてる」って事になると途端に誰も笑わなくなるわけです。笑うかもしれないけれど、本気なんだなコイツってなる。
結局思っている事が実現化するのではなく、思わなくてもやってしまっている事が夢につながるんだと思います。
それが願いを言うってこと。
ひとつ注意すべきは、願いとか、夢とかそういった言葉の裏側には「叶わない」という漠然としたイメージがつきまとっているということです。
だから、夢として語らない。夢を目的としない。
やるものとして、あるものとして、まるで決まり事のように無理をしないでただやる。
シェンロンのためにドラゴンボールを集めてるといやになるけど、ドラゴンボール集めそのものがアドベンチャーであれば、途中で死んでも悔いはないかもしれない。
僕はそうやって言い聞かせてます。
だから、夢も希望も願いも僕にはありません。
あるのは絶望だけ。
さて、自分にとって「願いをいうこと」は漫画を描くことです。
お楽しみください。「底面(そこめん)ちゃん」です!