そんなに似合わせないショート
カメラに手をかざす。ふと、画面は暗くなり、写っていた女性が見えなくなる。
手をどけると、再び女性が現れる。
髪型関係なく美人な女性の髪を短くして『魔法』と称するイケメン美容師の今回の魔法術名は『絶対似合わせショート』
習得にどれだけの鍛錬を積み重ねたのか。美容師はイケメンである必要はあるのか。さまざまな疑問はあれど、1つだけ解決しておきたい論理問題がある。
『絶対似合わせショート』が施術されなかった客のショートは、果たしてなんなのか?
集合理論を用いた、絶対に追及しない方がいい証明が、始まる。
美の方程式
『絶対』という定義の外に定義されているのは『絶対ではない』という事象であり、数字でいえば『100%』でない時は『0%』ではなく『100%以外の全ての%』がそれに値する。
『絶対似合わせショート』は、美容師がそのスキルの全てを投じ、己のプライドをかけて100%似合わせるために施術したカットであることに相違ないだろう。
では、『絶対似合わせショート』と名付けられなかったショートたちに、一体美容師はなんと名前をつけるのだろうか。
雑草という植物名がないように、『雑ショート』というカットスタイルもないはずである。感覚的な追及は私的な恨みを生み、私怨はもつれを生む。だからここは、曖昧な定義ではなく、蛋白で論理的な、事象としての命名をしていくしか許されていないのである。
『絶対とは言えないが似合わせる気は少なくともあるショートを、なんと呼びますか?』
本当は表参道の美容師100人にインタビューをして、深夜に緑色のドラゴンと、売り出し中のグラビアアイドルに発表してもらいたいのは山々なのだ。しかしそこには生産性がない。スポンサーがつかない。否定的な広告には、誰も乗らないのが世の常なのはいうまでもない。
『そんなに似合わせないショート』
instagramに載せられないショートカットの女性たちが、今日も表参道のガラスに映る。
Def-Tech
地に足つけ、頭雲向け。
定義する技術は、多くの場合に人を助けるが、同時に多くの人を傷つける。
Definition-Technic(定義する技術)は、己の道を進み過ぎることで思わぬ結果をうむ。でも大丈夫。お前はそこまで弱くないから、
恋人の写真を見せろとせがむ女友達、カオリに、彼氏の写真を見せる。
『え!イケメン!』と、友人の彼氏の容姿を『イケメン』と定義するそのDef-Tech。『ミキの彼氏も見せてよー』とせがむカオリ。見せるミキ。
『えー!優しそう!』
定義指標は瞬時にして容姿から性格診断に移り、カオリは内に秘めたプロファイラーの人格を顕にする。
『ミキが好きそうな感じめっちゃするわ笑。あー、あたしもイケメンの彼氏欲しいー。』
カオリに罪はない。カオリはただ、イケメンをイケメンと呼んでしまったが故に、イケメンではないミキの彼氏を『イケメンではない』と弊害的に定義してしまっただけの、いわば被害者なのである。
悪いのは誰だ。きっと、イケメンだ。お前のマスクが甘いから、カオリは別人格まで出現させるくらいに追い込まれてしまったのだ。罪な男である。
見たいとも言っていない彼女の写真を見せられ『一般的な顔を偏差値50としたら52くらいだね』と、定量的に評価することの失敗経験は数知れない私にも、カオリの心中を察するだけの心はある。
カオリ、あなたはきっと、素敵な彼氏を見つけられる。だってあなたは、ミキの彼氏に『イケメンではない』以外の特徴を即座に見つけられる、いい子なのだから。
汁分け坦々麺
汁なし坦々麺が、普通の坦々麺を『汁あり坦々麺』に変えてしまうように、イケメンも、普通の男を『イケメンではない男』に変えてしまう。
紹介した瞬間に『かわいい!!』と評される女性は、隣にいる親友を『かわいくはない女性』に変えてしまう。
集合理論に基づくベン図の円の外側で、何とも論理和も取られずに生きる人々。
自分とは何かを定義するがあまり、自分以外を意識し過ぎてしまう人々。自分以外に尊敬を持ちすぎるがあまり、自分の矮小さに打ちひしがれてしまう人々。
その誰もが罪なく、必死に生きている。
自分とは何かを定義することに囚われ、インドに探しに行ったり、オンラインサロンにその答えを求めたり、年収や、時には前世の記憶や守護霊にまで、己の存在の定義を確かめる。
そうでもしないと、日々感じるこの星の72億の魂の中で、自分だけが『モブ』のような。自分だけが『その他』のような。そんな重圧に押し潰されてしまいそうになるのだ。
自分の定義を、人は探し続ける。
その命がこの世に生まれる前から、その命に期待していた人がつけてくれた唯一の定義を、『遺書』と書かれた最後の手紙の下に、そっとしたためてこの世を去る。
最後に
曖昧にしていた方がいい定義もある。そもそも定義できないものもある。もしかしたら、定義できる対象だとしても、今の自分には定義できる力がないのかも知れない。
そんな自分の限界を抱きしめて『必ず定義するから待っててね』と涙を流すのも、良いではないか。
『他人』が、1回の挨拶で『知り合い』に変わるように。『知り合い』が、1時間の食事で『友人』に変わるように。『友人』が、1度の喧嘩で『親友』に変わるように。
『定義をすること』よりもずっと大切な、『定義を変える行動』で、世界を変えていけたらいいのだと思う。
いつか『他人』だった『最愛の女性』の髪に『似合ってるね』と声をかける。
定義した言葉が、その女性の『イメチェン』を『魅力』に変えて、
大きな夢を持つ美容師の今の精一杯を『絶対似合わせショート』に変える。
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