えくぼ
後に伝説の工作員と呼ばれる安がフミを初めて見たのは、政治大学二年生の時だ。
「えくぼ……えくぼが可愛いな」
それがフミへの、安の第一印象だった。
一月十七日。ついに日本で、最大深度七の大震災が起きた。フミ同様、安もVRスーツを着ている。搭載したAIで地層を観察していた安は、安堵と恐怖を覚えた。
「事はフミの予想通りに進んでいる。間を置かずして、フミは日本に浸透した工作員、スリーパー、土台人を使い、サリンテロを仕掛ける……」
安は無論、日本国民の命など、どうでもいい。日本は脅せば、金と米を送ってくる。偵察局が政治とマスコミに潜らせたスリーパー達は、充分に機能している。教育も、だ。
日本語は難しい。平仮名、カタカナ、漢字。口語に文語。そして、敬語。
安の同志である丁がフミを拉致したとき、彼女は中学校二年生だったが、日本語教師として充分だった。
フミを拉致してから十年後、丁は言った。
「フミと十年ぶりに会ったが、挨拶が無かった。寂しい、とても寂しい」
それを聞いて、安は嘔吐した。彼は生まれも育ちも北だが、本当にこの国は、腐っている。将軍とその取り巻きは肥え太り、痛風になるほど暴飲暴食している。そんな彼等に人民は土下座しながら、餓死していく。彼等はなぜ、生まれてきたのだろう?
やがて安は、フミの護衛役に任じられた。だがすぐに、彼女に護衛は必要なくなった。
フミは信じ、待っていた。「石黒忠悳」を。けれど日本にはもう、「石黒忠悳」はいなかった。また、アンナ・ビェルケヴィチ女史のように、救済の輪を作る大和なでしこも、皆無だった。やがてフミは、待つのを辞めた。
フミが自分と入籍したのは、純粋に愛だけではないと、安は知っている。この国で女が生き抜くのは、過酷だ。煙草を一服しただけで、男に撲殺される。
堪忍袋の尾が切れたフミは、居心地がいい招待所を離れた。ハムン産院に七千七百円のワイロが払えなかった妊婦は、腹に子どもがいたまま死亡した。入院できても待っているのは、ビール瓶の点滴溶液に砂糖と水を混ぜただけの点滴液。
そのまま日本語教師を続けていれば、フミは九一五病院で手厚い医療を受けられた。しかしフミは――好奇心旺盛な少女は、見てしまった。九一五病院で秘密裡に製造される劇薬や覚醒剤を。それが数分後に日本で起きるサリンテロに結び付くとは、数奇な運命だ。
フミが安と入籍したのは、三号庁舎で訓練を受けるためだ。化け物が選抜される訓練だが、例外規定がある。
「特殊な言語が使える特技要員は、民間人から直接、特殊部隊の隊員に採用される」。
この規定を利用し、そしてフミは軍幹部と性交し、政治要員の変態行為に付き合いながら、入隊した。いや、潜り込んだ。マイナス二十度の氷が張った海を二十キロ、泳いだ。三次元空間射撃を身に付けた。北の粗悪な銃は「当たらない」で有名だが、フミは五・五六ミリ砲を四百メートル先の動く的に全弾、命中させた。ひたすら拳骨で殴打される「特殊体育」の数々を、首席で修了した。何より安が驚いたのは、思想教育に染まらなかったことだ。隊員達は常に将軍への忠誠を叩き込まれるが、フミと安だけは事の本質を見抜き、「自爆精神」を打破した。
安がVRスーツのモニターに目をやると丁度、霞ヶ関の地下で、サリンが散布された。これで、大宮の化学防護隊を霞ヶ関に釘付けにできる。
後はフミから託された「作戦名・福井麻生」を実行するだけだ。「壁面破壊」は、行わずに済みそうだと、安は安堵した。
安は脱北後、韓国から日本へ亡命する。韓国は駄目だ。脱北した同志が次々に、殺されている。
安はVRスーツに搭載したAIで、「作戦名・福井麻生」を発動した。これで敦賀半島に潜水艦が座礁し、SATと陸上自衛隊は全力を注がざるを得なくなる。同時に、イージス艦も占拠した。二つの攻撃は、日本が世界に誇る特別警備隊、別班、習志野、SSTによって制圧される。それは問題ではない。これらの勢力を足止めしている間に、「作戦名・アンナ」は実行される。
安は岬の先に立ち、荒ぶる波の向こう、見えない極東の島国に、ソッと囁きかける。
「日本人よ、お前達は何も気づいていない。因果応報だ。日本人よ、震えて眠れ」
岬の先に立つ安を文革とリンクしたマヤで補足した本間もまた、言い返した。
「北よ、お前達は何も気づいていない。因果応報だ。亡国の民よ、震えて眠れ」
そう、日本には「本間雅晴」がいる。
灯にして、焔。
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