ポーランド孤児
その少女は中学校の入学式を、風邪で休んだ。翌年、彼女を不憫に思った両親は、桜散る美しい永平寺の境内で、彼女の記念写真を撮った。それが、日本における彼女の、本当の姿を記録した最後の宝となった。
安は誰もいない政治軍事大学の一室で、VRスーツを身にまとっていた。いや、彼もフミも常に身にまとっている。スーツ表面が背広になり戦闘服になり人民服になり寝間着になり、下着になる。裸体になれば、透明にだってなる。三号庁舎の時代に取り残された石器時代の人民軍兵士達は、VRスーツを着たフミと安を羨ましがる。
フミはそんな愚か者を相手にしないし、安は鼻で笑う。時代に取り残された奴等は、根本的なことが分かっていない。擬態すれば諜報も暗殺も容易だが、自我を失う。もう、「正常」には戻れない。そもそも安はこの国で生まれた時点で、「正常」をあきらめていたし、「正常」など求めていない。この国で最も、手に入らない。
そんな狂気の地において、フミは……安はふと我に返って、マルボロをくわえてジッポで火をつけた。民主主義の愚民どもは禁煙と声高に叫ぶが、安は失笑する。九一五病院の麻薬の年間製造量と流通経路を見せれば、何人の愚民どもが泣き、悶えるだろう。
北の最高幹部達は「洋モクを吸うとは非国民が!」と罵るだろうが、どうでも良かった。安がその気になれば、将軍だって殺せる。殺さないのは無論、慈悲などというくだらない感情に流されたからではない。
フミのためだ。フミが自分を踏み台にしていることは、分かっている。そうであっても、安はフミを愛している。理屈ではない。恋は国境も時代も思想も超える。戦争さえ。そうやって、人類は繁栄してきた。
フミとの恋が成就することは、永遠に無い。フミはいつだって、愛している人達がいるからだ。愛している国があるからだ。
「拉致」。その蛮行が、人類の宝である恋と愛を、歪にした。狂気に走らせた。
安はVRスーツ搭載の液晶に、目を落とした。
「震災を克服し、サリンテロを乗り越えたか。そして『作戦名・福井麻生』も……極東の島国に、まだ侍はいたのか……」
テロが鎮圧されるのは分かっていたが、安は吐息をつく。
震災とサリンテロ、さらに敦賀半島への潜水艦座礁とイージス艦の乗っ取り。これら全ては、ブラフに過ぎない。美浜原発の破壊こそが、「作戦名・福井麻生」の本筋だ。
「本間雅晴……彼がいたのか……」
狂気に犯された岸壁の腐った港で立っていたとき、日出国から殺気と温もりがこもった視線は感じた。只者ではない、それは肌身で確信した。それがまさか「本間雅晴」だとは。
安は、身震いした。愛しているフミは、「日本救済事業『アンナ』」をすでに発動している。本間との戦争は、避けられない。行き着く先は……。
安はマルボロを、政治軍事大学の虚栄に満ちた演台で揉み消した。自分を奮い立たせなければならない。「作戦名・アンナ」は安にとって、フミの補助でしかない。安には、大義がある。
「片側破壊」で日本を分断させ、欧米が仕掛けるSNSを用いて、過剰な男殺しと環境原理主義者を育てなければならない。この点について、安は心配していなかった。愚かな一部の大衆は売名のため、掌の上で踊るからだ。問題は中国の武漢との共同である「作戦名・コビット」の行く末だ。中国は人口爆発に備えて、宇宙開発に傾注している。文化大革命の総括をしなかったことが、足を引っ張らなければいいが。
安は新しいマルボロに火をつけようとして、手を止めた。
「日本はなぜポーランド孤児を救出したのに……」
フミが北を出発したその日、呟いた言葉。その声は小さかったが、ビッグバンより巨大な感情のうねりを感じた。素数の羅列では測れない、悲しみがそこに、あった。
安はマルボロを箱ごと捻り潰すと、政治軍事大学を後にした。その顔は、世界を殺す諜報のそれに変わっていた。
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