突然親の病気から介護にまつわる話し、色々 その1
初めての投稿になります。今月5月27日で父親を身送ってから、ちょうど7年になりました。享年81歳。
今、私は父親の病をきっかけに6年あまりじっくり寄り添ってきた経験をもとに、記録として、または介護に関してどなたかの参考になれば、と思い書き留めておきます。
素人ながら、重い障がいが残り、意思疎通できなくなった父の世話で生活の大部分は介護に関わってきましたので、備忘録も兼ねていますが、その当時のこと、病気から治療期間、医療や介護手続き、逝去後の相続問題 など同じような境遇にある方の少しのヒント、考え方の選択肢になれば…という思いです。
母親は、69歳であっけなく癌にて逝ってしまいました。母が亡くなってから父親は、私には寂しい顔をあまり見せずに、自分の生活を充実させていました。この年代にしては「自分の事は自分でする」が身についていて、家事もこなし自立した父でした。会社員として定年まで勤め上げ、その後5年は系列会社にても仕事し、70歳で外国に旅行したり、地域でのサークル活動に楽しく暮らしいわゆる悠々自適に定年後の生活を楽しんでいました。嫁にいかない私を、いちども咎めることなく音楽をしていた私を認めてくれていていて、親子といえども必要以上に干渉するでもない割とよい距離感で暮らせていました。
地域での活動とは、町内会の仲間ができそこから社交ダンスを始めるようになり、運動不足解消にも役立ち、楽しみに週二回くらいはダンスサークルへ通い、ほかにも「手づくりパン教室」なども参加していました。
ある日の朝、いつも8時くらいにはだいたい朝食を済ませているはずの父が、8時過ぎても起きていないので「今日は午前中ゆっくりしてるのかな?」と思ったくらいで気にもとめませんでした。前の晩も普通に夕食を共にして明日の帰りは…などと話しをしていたので。
9:00〜トイレに行く気配もないし、寝室にあるテレビの音もしないので、部屋にいき声を掛けたら、布団の中で「う…〜ん」と声らしき?うなりはしてたもの反応がおかしい… … 言葉が出ない。そこから、かかりつけ医師に電話をしたら、運良く見にきてくださり、救急車。
救急搬送先はかかりつけ医が救急隊の方に指示をされ、運良くその病院で受け入れていただけることになりました。
病名「心臓病からくる脳血栓」
父は、不整脈があったので普段からかなり気をつけ血栓予防の薬でコントロールできていたつもりでしたが、梗塞してから発見まで時間が経っていたのでしょう… 命があるのも奇跡くらいのギリギリの状態だったそうで、重い後遺症が残るとのこと。悔やんでも悔やみきれませんでした。
結果、右半身麻痺と全失語症(話すこと、聴いて判断能力もなし) となりました。
病気はお医者が治療をしてくれるわけなので、私としてはやることも、さほどなく…しばらくは見守る以外はないのですが、まずは救急病院での治療期間としていられる目安としては1か月1か月半位でしょうか(ほかに合併症とかがない場合)
大抵は、急性期病棟から高齢者の場合は療養型病院へ移りいわゆるリハビリしながら退院を目指す…という形が多いそうです。この急性期病院での治療は、固まった血栓を溶解するといったもの、それと並行ししばらくは、意識が回復しても脳機能がダメージを受けているので声も出せない、右半身は自分では動かせない状態の為、リハビリ科の先生が少しづつ身体を動かしに来てくださいました。私にとって先ず最大の衝撃は、「1日にしてまるで話すこともできなくなってしまった」ということです。命が助かったこと、もちろん感謝すべきことですが、話せない、声が出ない、ということから、最大の問題「嚥下(ものを飲み込むこと)」の機能不全になってしまっていました。嚥下状態が悪いということは、口から栄養が取れないということです。入院してからしばらくして、点滴はしていますが、少しずつゼリーをたべる練習を並行していきますが、むせ込みがあり誤嚥(本来は、食べたものは、食道に行くはずが気道にいってしまう) 人間は口から入ったものを咀嚼して「ゴックン」として飲みこみますが、これは脳からの指令で行っているので、父の場合は言語中枢を操る脳の部分が梗塞してしばらく血がいかなかったのでその部分の神経は死んでしまっている状態なのでした。なのでまさに、誤嚥しないように言語聴覚士の先生とともにリハビリの日々が始まりました。さて…これからが本人も、また家族でキーパーソンの私も狼狽し、 長い治療の始まりでした。
その1おわり。
次は急性期病院から、リハビリ治療型病院への転院、介護保険申請、治療と寛解までを記していきます。
#はじめての介護 #脳梗塞
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