高校文芸部時代の小説5「自信の誤算」
僕は休日を知らない道でただ漠然と過ごす。今日は休日であるから、そうやって過ごすチャンスが現れた。
今日は風がなく、蒸している日本らしい夏の日である。お昼前の時間帯はプール授業帰りの子供で溢れていた。僕が休む時、世は動いている。月曜休みの少し変わったシフトのせいである。
僕はすたすたと点在する子供たちの流れに逆走して歩いた。
このまま行くと公共スポーツ施設にぶち当たる。しばらく歩くと路傍の植木が豪華になり、アスファルトは色がきれいで、一目でお金の掛かった歩道だということがわかるようになっている。ここを走るランナーが多く居るために、そう言ったもてなしが用意されているようだ。
きれいな道をしばし歩き、ようやく公共スポーツ施設に到着した僕は、用もないのにずかずかとスポーツマンの土地へ上がりこみ、巨大な体育館の脇を通るのであった。
散歩とは用のために移動するのではなく、移動するために移動する遊びのことである。だから散歩をするというのは、間違った使い方で道を使うということになる。それは間違った税金の使い方をしていることになるので、散歩を長々とする人は悪い人である。したがって良い人間はこれをまねしてはならない。僕は悪い人なので一時間、二時間と平気で散歩をしでかしている。
悪い人の僕は、今日もこの税金で作られた素晴らしい舗装路を目的外の理由で平然と闊歩している。そうしないと体育館の脇、砂利の隣を歩くことができないのである。
砂利の隣は、そこにある大型施設の影となり涼しい。
そこでは八千円のジャージを着た人が、一万円の道具を持ち、随所にお金の掛かった体を動かして往来している。要するに札束が歩いているようなものである。
まともにスポーツをしようとすればお金が掛かるものだ。しかし、お金を掛けるのが服である場合だと大抵そのお金はメーカー名の刺繍にかかっているのではと思っている。
僕からしてみれば、服は布代ともろもろにかかる人件費と後の諸費用さえ払っておけば手に入るので、わざわざブランドのロゴで価格が上がったものを買う気はしない。ジャージなどロゴが入っていないものであれば、三千円と少しあれば事足りてしまうのだ。
道具に関してはその限りではなく、高いものは確かに質が良く、使いやすい。しかしそれもある程度を超えてしまうと、良し悪しはわからなくなってしまう。五千円のラケットと一万円のラケットの違いを述べよと言われても素人の僕には何も言えない。
これだから僕はいつまでたってもわかる大人というものになれないのだ。あまりにも見栄に無頓着すぎる。
体育館は長く、その分だけ砂利も続く。延々と細かい石が敷かれているのだ。砂利の色は灰と黒のコントラストであり、僕の脳に不毛な印象を延々と送り届けてくれる。僕は不毛な印象にのっとって淡々と歩く。そこのスポーツマンと違い、かっこいい姿ではないのでぼくはとんだ場違いである。
角を回り、今度は日の当たる道を歩く。まぶしいので目が細くなり、眉間にしわが寄るが、だれを見てもそんな顔で歩いている。天気が良いと人は嬉しいのに、どうしてもまぶしく渋い顔となってしまうのだ。
こんなことを人という生き物はずっとやっているのであろうが、いまだ大半の人間は晴れの日を好んでいる。作り笑いに気分を高揚させる効果があるというのに、まぶしい日の渋い顔だと、たとえそれを何代にわたって続けても、嫌な気分にする効果がないというのは少し面白い。きっと表情のことなんかどうでも良くなるくらい太陽光は人間にとって重要であるのだろう。
体育館の横の辺は縦よりも短いので割とすぐに次の角についてしまう。さらに角を回る。
角をいくら回っても砂利は相変わらず不毛な印象を崩さない。何気ない午前とともにそれは過ぎ去ってゆく。しかし、今日は砂利の中に鮮烈な不純物があるのが視覚というセンサーを通り、不毛な印象を打開する電気信号として伝わった。
それはまだ生まれて間もない鳥であった。巣から落ちてしまったのだろうか、もう死んでしまっていて、それは動かずたまにハエが止まる。
僕はそれをじっと見据えた。冷静に形を細かく捉え、しっかり記憶すべきだとなんとなく思っていたのだ。そこで僕はしゃがみこみ、それを心に焼き付けようと必死で鳥にだけ集中していた。そうしているうちに僕の心に焦りや恐怖といった感情がふつふつと沸き立ち始めた。
鳥は、死の権化として僕にせまっているように感じられた。本当はこんなもの肉の塊でしかない筈だが、今日の僕はこの夏の暑さのせいでどうかしていたのだろう、そんな根拠のない悪夢を作っていた。でも死が冷酷であることに変わりはない。現にこの鳥はもう動かないではないか。なんと恐ろしい。
しかし、先ほどの砂利のように不毛ではあるが平穏な僕の人生で死ぬことなど遠い先の話、考えるだけ無駄なことである。それに考えた所でそれから逃れることは出来ない。至極当たり前のことだ。だからこんな事で焦燥、恐怖、戦慄などするだけ意味はなく、エネルギーの無駄遣いとなるだけだ。
こうしている間にも時間は流れているのだ。午後は家で洗濯と掃除をしようと思っている。さらに、昼食として賞味期限切れの納豆と竹輪を体内処理しようと決めていたではないか。お昼までには家に帰らねば。こんなところで足止めをくらっている場合ではない。さっさと体育館を回り、帰路に就こうではないか。
かくして僕は感情を捨て、さっきの道を逆戻り。早い歩みで住処に着いた。
さて、昼食をとろう。
僕は予定通りに冷蔵庫をあさり、目的のふた品を取り出して、しんと静まり返った四畳半のちゃぶ台に広げもくもくとそれらを食べた。黙って一人で食べた。部屋には僕が食事する、その音だけが絶え絶え響いている。
納豆をすすり、竹輪をかじるだけという食事を進めていると妙な気持ちになってきた。きっと部屋が静かすぎるのだろう。静かな時は耳鳴りのような高い音がかすかに聞こえるが、今日はそれが一段と良く聞こえる。感覚の感度が少し高い目のようだ。キーンとなる音が強くなったり弱くなったりしてガンガン響いている。
食事が終っても音は消えない。それはそうだ。消える方が不自然で怖い。しかし、消えないのはいいが、心なしか大きく聞こえるようになっているのはいただけない。不安材料となってしまうではないか。
僕は洗い物をさらっと終わらせて床に寝そべった。音はまだ響き続ける。
天井を見つめる僕の頭では鳥の記憶がぶり返していた。こう言うのは一度思い出すとなかなか抜けられなくなる。幼少期からトラウマに弱い僕はそんな経験が多いから、わかっていた。いまだにそれは少し残っている。
今日は耳鳴りもその恐怖をあおっている。僕はまず、落ち着いて寝返りを打った。怖いのだ。こんな時に限って過ぎていくその一秒、一秒がやたらと長く感じられる。不穏でしかない。
せっかくの休日なのに不安な午後を過ごすとか、そんなことは許されない。どうにかして、この悪夢のような記憶を振り切らなくてはならない。あんなに鳥を見つめたのは間違いだった。思ったよりも生々しく映像が残っている。トラウマで苦しむのはもうさんざんだ。いい加減やめよう。こんなのは人生の浪費だ。僕が幼いころから自分の記憶で苦しんだ時間を合わせたら、なにができただろうか。そう思うと気が重くなる。
もしかしたら明日死ぬかも知れないのだ。もしそうなったら、お前は絶対に悔しがるだろう。憤慨するだろう。そうならないためにも、お前はあらゆるトラウマを克服しなければいけないのだ。さあ、克服しろ。もう子供じゃないんだ。自分の弱みを放置しておいて、なにが成人だ。お前の悪い所はそこだ。そんな記憶ごときに惑う自分が嫌じゃないのか。少なくとも私の信条には沿わぬ。いつも尾を巻いて、そのくせ生意気なことを言えるのはいつも逃げているからだ。さっさと戻って来い。
自己暗示をかけて、自分を安心させようと僕は必死である。もう一人の自分を作って、現実逃避に走ろうという試みである。
しかし、もう一人の自分は解決法として現実を見る様に言い始めた。「おまえ」が最後に悔やむ人生を過ごさぬよう、これからも記憶におびえることのないようにするには、現実逃避しがちな性格と考え方を直せ、と現実逃避の産物である「私」が言っている。滑稽である。あまりにばかばかしい。「私」の言うことは正しく、きちんと物事をとらえている。それは僕自身トラウマに強くなる方法を知っているという事実に直結しているのだ。
しかも、呑気なようでいてきちんと死ぬことをわかっている。本当はわかるのだ。わかって当たり前である。二十年と少し生きてきた中でそんなこともわからないバカがあるか。たくさん見てきただろう。飼っていた金魚、犬、それだけでなく万物の霊長を自称した、自分の同族だっていつかは三途の川を渡り、どこかへ行ってしまうのだ。散々見てきたはずだ。
それが怖いのだ。わかっていても逃げてしまうのである。
結局のところ、今まで避けてきた「死」というものこそ僕のトラウマの根底にあるものだろう。僕が大人になれない理由もそんなところに潜んでいそうだ。きっとそこを歩く大人びた学生は怖くても禁忌事項を作らずに、あらゆることにまっすぐ向き合っているのだろう。そうだ、間違いない。だから逃げるのはやめよう。
思考は堂々巡りをし始めた。ここまでくれば大丈夫だ。落ち着きが戻ってくる。逃げなければ、良いのだ。良い答えは図らずも自分で得ることができたようだ。何百の自己啓発本よりも、自分で行き着いたこの答えの方がよほど的を射ているように思われる。
僕は決心し、死と向き合った。その途端返り討ちを食った。
今まで気付いていなかった。僕はこんなことを考えている間にもどんどん死に近付いて行くのだ。一秒、一秒、また一秒と死は歩み寄ってくる。僕はショックを受け、焦燥し、戦慄した。体の震えが起こり、声すら出ない。
そういった意味で、僕はあの死んだ鳥となんら変わりない。期限付きの命で、あの鳥はその期限が早めに来ただけの過ぎないのだ。
恐怖への扉を開けてしまった今、忘れかけていたはずの幼少のトラウマが次々と襲い掛かってきた。肝試しで行った夜の墓場、踏み潰した虫の死骸、腐った何かを触る感触などいやな思いではさまざまにわたっていたが、その恐怖の根底は思ったとおり死にある気がした。
一刻も早くこの現実から逃げてしまいたいと思った。しかし、逃げられそうに無かった。なぜなら一度意識してしまったものは、考えまいと思うほどに意識してしまうからだ。経験上なんとなく分かっている事実に、今日は悲しくなった。
これが、考えることの怖さであると身にしみた。
責任の無い高慢な、いわゆる屁理屈は、自分のことでもないただ他人のやっていることにいらない注文をつけて、自分が満足できるがそれだけである。