高校文芸部時代の小説7「金魚」

ある朝私は途方に暮れていた。金魚が動かぬ。
それはいつもと同じ憂いをたたえた目をして、滑らかな鱗つきの体を光らせているが、ぴくりとも動かずそこにぽっかりと浮いて漂うばかりである。前にもこんな日は二、三あった。その時は、金魚はいつしかゆらゆらと泳ぎはじめ、何時間か経ったのちには普段通りの姿でこちらに餌をねだっていた。しかし、今の金魚は少しも動く気配を見せない。それどころかまるで生気が感じられない。スーパーで売られる食用の彼らと同じ、魚肉の塊でしかない。
にわかに私の心に暗雲が立ち込めた。暗く、黒いその雲は私の精神を蝕んでいく。同時にそれは胸のあたりからだんだんと肉体までも、黒く染めていくように感じられた。
十年連れ添った金魚との別れは、ここで急に現実のものとなる。強い耳鳴りと頭痛の中、私は骸となった金魚をただ見つめることしかできないでいる。九十cmの大型水槽にいる二十cm程の赤い魚の色は朝焼けの窓の外と相まって、鮮烈すぎるほどの印象を残していく。
日が昇り、朝焼けも終わるころ私は金魚の喪失という現実に目を背け、仕事という現実を見据えて家を後にした。
次の朝、起きてすぐ水槽台に向かってしまった寝ぼけの私はすっかり水を抜かれた水槽を見て悲しくなっていた。埋葬は昨日の夕方に終わらせていた。金魚の背のように赤く燃えたぎる、夕焼けの下でのことである。そして十年ぶりに水槽は水を抜かれ、ろ過機は止まり、水槽台の下についたたまりにたまったほこりは掃除機により跡形もなく吸われていった。
何もいなくなった年季いりの飼育用品はそれが無機質であり、生き物がいなければ意味のないものであるということをいやおうなしに語る。今まで水に満たされていたその水槽も、電源を切られ乱雑に水槽に放り込まれたろ過機も少しだけ湿っているものの、あの頃の活気は嘘のように静寂を聞かせてくる。それは、廃墟や枯れ草と同じく残骸の姿をしているのであった。夏の蒸した朝に似合わぬ、無味乾燥の姿である。
私は今日から一人で暮らすことになった。これは大きな転機である。十年もの間あり続けた金魚が居るという常識がここで破られた。金魚はもういない。ここでふと、金魚を迎え入れた日のことを思い出した。
一人暮らしになってから初めて迎えた誕生日、私は何かを買いたかった。しかし、買うものが思い付かずにいたのだ。その日、私は用事があり近所のホームセンターに入った。すると在庫処分のためか、大型水槽がかなりの安値で売られている。それを見て私は何となくその大きなガラスの箱が欲しくなり、買ってしまった。しかし、水槽には入れるものが無いと華が無く、なにも面白くないのでホームセンターにいたこれまた安い小赤という種類の金魚を五匹買った。
これが始まりである。
小赤は初めの一年で四匹になり、その後も櫛の歯が欠ける様に数を減らしてゆき、五年目には一匹となっていた。最後の一匹は非常に長生きで、四匹が死んでから五年も生きた。これが、金魚と過ごした十年の内訳である。この長い年月の中で、それは心の中に住み着きいつしか私の人生に溶け込んで、混ざってしまったようだ。朝起きて金魚に餌をやり、夜遅く帰った日は暗い水槽の中、眠る金魚がいる。そんな日々の微々たる積み重ねが積もり、それはかけがえのない唯一無二の重量感がある存在となっていったのである。
十年間に点々と続く足跡のように残る思い出は私に想像以上の精神的苦痛を与える材料となっているように感じられた。
急に新しい生活が始まろうとしている。狭い部屋の中で大きく場所を取る飼育用品の類は、見るたびに悲しくなるし置く必要が無いので、押入れにしまいこんだ。いたって普通の一人暮らしを演じてみようと思った次第である。しかし、そんな毎日はなんの面白みもなく、無意味で潤いもなく、空を見れば虚無に見え、川を見ても固く凍った私の感情がほどけることはなく、ただ水の流れるのを見つめるのみ。思うことは金魚のことばかり、それだけ。交際相手もおらず、特段これといった趣味の無い私にとって日常に輝きを与えてくれたものは唯一それだった。
私の頭の中では魚の幻が投影され揺らめいている。最近の休日は飯も食べず家で寝ている。これでは廃人そのものだが、一向に改善の兆しは見えぬ。仕事には一応行くものの身が入らず、ただ機械的に作業をしている。
だらだらとけだるさに満ちた一瞬は閃光のように消えてゆく。輝くべき一瞬もこうしてどぶに捨てられる。どぶに捨てるような時間を過ごす私の生活もまた、どぶの中にあるようだ。濁りきった水の中では息もできず、生命力も続かない。苦い、苦しい毎日である。私はいつしか地の底から湧き上がるような、自分自身の生命力を渇望するようになった。
ある日、その力の復活を思わせる日がついに訪れた。休日に腹が減り、体がむくりと起きて着替えをし、親子丼を食べに行こうとしているのだ。これはいい兆候だ、と心が弾んだ。
天候は晴れ、ところどころ白い雲が光る夏の強い青空である。
道中の用水路には薄汚れた水が流れている。薄汚れた水は独特のにおいを放っていた。それを嗅いだ時、私の目から唐突に涙が流れた。同時に幻の魚は私の頭からいなくなり、本物の金魚との思い出が胸に溢れだした。用水路は金魚のにおいがした。
涙はよどんだ水を洗うかのようにとめどなく流れた。思えば、金魚が死んでから泣いたのはこれが初めてである。これにより、私の気持ちは整理され、金魚の死をまっすぐに見つめることができた。
気付いた時には涙も止まり、晴々とした気分で道を歩く私の姿がそこにあった。親子丼も美味く、幸福感の高揚を誘った。
これからは、本当の意味で金魚への追悼をささげることができる。そんな気がした。悲しみや恐れで凍った心では追悼も何もあったものであるまい。心が豊かでないと、失った相手のことも思うことができぬ。豊かな心の中にしまった思い出と、起伏の伴う感情あってこその哀悼であることに、私は初めて気がついた。
金魚はもういない。しかし、私の生きる糧として今もなお、機能している

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