高校文芸部時代の小説8「夢の続き」

このところ、僕はよくデジャブを見るようになった。デジャブとは既視感であり脳の誤作動といわれているが、それほどにも僕の脳はバグが多いのだろうか。それは増えている。
しかも、それを自覚したとたん視覚の機能が弱くなり、脳内の映像と現実が混ざって見えるのだ。脳はそれを夢の中で見たと思っており、僕もそう思っている。脳内映像は夢を基にしているらしいので多少の美化がかかっており、それが僕をよい気分にさせる。
 現実にまで美しい夢が介入するこの現象はなんともいえぬ浮遊感があり、不思議で楽しい気分が味わえた上に、僕の覚えている夢は良いものが多いためデジャブの多幸感を加速させていた。僕のデジャブは仮想現実であり、すばらしい浮世を見せてくれるのだ。
 そして僕は、今日も脳内映像の中にいた。
 朝、焼きあがったパンを見たときや通勤路の塀に乗ったねこなど、あらゆるものに既視感を覚えた。まるで一度見た映画を見返しているようだ。既視感を覚えるたび映像は脳内のものに切り替わるので僕の視覚情報はもはや目からのものではなく、脳が作り出した代物だった。
 脳はディストピアを作らない。どうせ作るならユートピアだろう。僕の脳は僕が心地よくなるものしか見せず、それはきっと異常なことであった。脳は誤作動の連発だ。すなわち壊れている。今のままでは本来使い物にならず、直さなければいけない。とはいえども既視感を多く感じるだけである。大きな問題はなかろう。
 そんな根拠のない安心感とともに今日の仕事もひと段落ついた。
僕は住むマンションの階段を登る。
 階段を上りきり、廊下を歩くそのときである。またも僕はデジャブを見ていたが今回は事情が違っていた。
 夜の廊下は暗く、窓から月の光がしっとりと床を照らしている。天井の古い蛍光灯が息絶え絶えといった様子で点滅している。これが本来の廊下である。しかし僕はそこで朝日を見ていた。東からの日は激しく、廊下の壁は白く輝いており、その中で人が二人ばかり動くのが見えた。それは美しい、早朝の澄んだ景色である。印象的な、黄金のヴェールがかかる景色である。
 夜の月光の下、僕だけは太陽を見た。
 僕はにわかに身の危険を感じ始めた。明らかに異常である。直観的に意識が無意識に食われている気がした。もしかするとだいぶ前から僕は気がふれてしまっていて、いまさら気付いても手遅れかもしれないと思い不安になった。
 徐々に体がフワフワした奇妙な感覚に襲われて、意識がもうろうとしているのが分った。理由は分からないが、ここで気を失ったらいけないと感じた。しかし僕は抵抗のすべを持っておらず、あえなく失神してしまった。
 失神のさなか、夢をずっと見ていた気がする。それはいたって現実的な夢で、久々に見る脳内補正のかからない、ありのままの世界を展開していた。まるで、脳が処理して見せてくれなかった現実を見ている気がした。これは今まで蓄積した目からの情報のようだ。それらが堰を切ったようにあふれ出ていた。
 目を覚ますと僕は廊下にいた。そのままである。長い間失神していたようで、体が少し冷えていた。精神は落ち着いている。空は暗く、のっぺりとつや消しの紺色をして、速い風が雲を流すのが見えた。ここで僕は自分がデジャブを見ていないことに気付いた。この前までは朝からめまぐるしい程のデジャブをずっと見ていたにもかかわらず、今はなにも起こらない。どうやら失神したおかげで、脳がリセットされたようだ。気を失ったのは正解だった。
 それからというものの僕はデジャブを一切おこさなくなった。今思えばあの時期に一生分のデジャブを起こした気がする。きっと何かがおかしくなっていたのであろう。
 そんな頃が少し懐かしく、また空恐ろしくある。人生においてかなり短い時期であったがありえないくらい鮮烈な記憶がいまだ残っている。言えるのはこれくらいだ。
 自分でさえ、なにがあったのかよくわかっていないのだ。
 いつかわかるときが来るかもしれないが、わからなくてもいいし、分らない気がする。僕の知る、一番奇妙な話である。

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