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もたらされる地獄の複数

※死についての直接的な表現が多く出てきます。苦手な方は注意してください。

※以上の文章は、ある企業さんのメディアからの依頼で「いつもYouTubeで配信されている東大の生活」を書いてほしいと言われ、書いて送ったものの、内容上の問題により掲載がされなかったものです。

※どうしても、僕には文章で「素敵なキャンパスライフ」を書くことができませんでした。僕にとって文章は、ほんとうに正直でいられる数少ない場所のひとつだからです。編集者さん、企業さんには申し訳なかったと思っています。

 複数の地獄がもたらされる。医学科の講堂に授業を受けに行くと、だいたい僕は寝坊していて、始業の時間に遅れて入ることになるので、席はほとんど埋まっているから、最前列の一番端の、唯一空いている席に座る。その席は、正面にあるスクリーンと角度がつきすぎているから、教員の使っている授業スライドは殆ど見えない。MacBookを出して、机に備え付けのコンセントにコードを挿して充電する。講堂はいつも、地獄みたいに暑くて狭い。

 そういうとき僕は、誇張なしで(つまり誇張しているのだが)、その場にいる人の全員に死んでほしいと思う。もちろんその場合、最初に死ぬのは僕だ。脳から血が出て僕が死ぬ。心臓が壊死して僕が死ぬ。肺炎が悪化して僕が死ぬ。死んだら、こことは別の地獄に行くことができる。もちろんおまえも地獄に行ける。誰もそのことを証明する必要がない。それはいつか確実に起こる。

 地獄にも天使がいる。誰かが小声できれいな歌を歌ってくれたら、僕はすぐに好きになるのに、僕の地獄では誰も歌わない。ヒマになったら誰かの歌をYouTubeで聴いて、僕はすぐにヘッドフォンを外した。


 実家が地獄で、どうしても出たかったので、死にそうになりながら勉強して東大の医学部に入った。もともと医者の仕事にはそれほど興味がなかった。父親が医学部を目指して8浪していたので、医学部以外に入った場合に実家を出ることは許されていなかった。それまでの人生は毎日が地獄だったから、入試本番は1ミリも緊張しなかった。センター試験でも二次試験でも自己ベストの点数を取ったが、元の自己ベストが低すぎて不合格になった。追加で1年勉強したら、またセンター試験でも二次試験でも自己ベストの点数を取って、ギリギリ合格できた。地獄を抜け出すための賭けに勝った日だった。合格を知った母は泣いていた。お前が泣くなよ、と思った。おめでとう、とも思った。親も親戚も寂しがったが、無理を通して東京で一人暮らしを始めた。

 無理して出てきた東京も地獄だった。大学の全員がぬるく見えたから、ほとんど誰とも友達にならなかった。躁鬱の恋人と同じベッドで眠った。ぬるいはずの同級生がどんどん外資に就職して金持ちになった。そいつらはスカスカの笑顔で卒業アルバムのクラス写真を撮ったが、その日も僕は家にいた。僕だけがずっと同じところに取り残されていた。

 両親のおかげで金はあったから生活費と学費と家賃に困ったことはなかった。今の日本で金を持っているやつには、自分が地獄にいることを主張する権利がない。僕の地獄のことは誰にも話さなかった。僕は恵まれていた。誰もが僕の人生を羨む。


 『地獄の天使』という映画を昔のアメリカ人が何億円もかけて撮る。僕はそれを2時間で見終わる。その映画の撮影中に事故で3人が死に、モチーフになった戦争(第一次世界大戦だ)で1000万人が死ぬ。僕はその映画を、古くてつまらないと思う。


 どうにもならなかったから、とりあえず短歌を書くようになった。自分のことを書きたかったが、地獄のことをそのまま書いても面白くないので、なんとなく詩っぽく、薔薇とか蝶とか星でコーティングして書いた。いろんな人に「意味がわからない」「嘘っぽい」と言われて、自分は短歌に向いていないんだと知った。

 短歌を書いても誰も読まなかったのでYouTubeを始めた。地獄のことをそのまま話しても誰も笑わないので、自分がどれだけ優秀で、恵まれた人生を送ってきたかだけ話すようにした。誰もが僕の人生を羨むから、数字を取るのは簡単だった。YouTubeで自分の嫌いな自分の人生を自慢するのは地獄だったが、それまでの毎日も地獄だったから大丈夫だった。数字が稼げるのは当たり前だと思った。時代は感受性に運命をもたらす。


 ヘルズ・エンジェルスという名前の暴力団を、昔のアメリカ人が作る。彼らについての本を昔のアメリカ人が書く。麻薬を売って金を稼いで、バイクに乗ったり、人を殺したりする。僕はその本を和訳で読んで、地獄の天使ってなんかだせぇな、と思う。


 本当に死にそうなフォロワーがいて、そいつのいる地獄からDMが届く。そいつは18歳で、どこかに悪性腫瘍ができて、治るかどうかわからない抗がん剤治療を受けている。彼は僕のことを知っていて、僕の歌集を読んでいるけど、僕は詩のなかで死を弄ぶので、彼が嫌な気分にならないかすごく心配している。

 そいつは元気になったら、医学部に入って、医者になりたいと思っている。そいつは僕に憧れている。そいつは今年、外泊許可を取って大学受験をしたけど、体力が落ちているから、テストの途中で力尽きて眠ってしまう。僕には、早く医者になってそいつを治してあげたい、とは思えない。そいつを治しても、また別に、病気になって18歳で死にそうになる人間が、繰り返し現れるだろう。僕には全員を救うことができない。

 僕は病気になる前のそいつのことを知らないので、そいつを〈病人〉としてしか書けない。僕は、死にそうなそいつ、についてしか考えることができず、そいつ自身のことを考えられない。僕はここに、生きていてほしい、とだけ書く。生きていける人間は、地獄に居続ける権利がない。そいつが読むのに、死ぬことについて書いていいのか、と思う。僕が生きていること、それ自体が不謹慎だと感じる。僕はおそらく、しばらく死なないだろう。僕の地獄はおまえには天国にみえる。


 複数の地獄が存在している。人間の数だけ地獄が存在するということを、僕は正確に認識することができない。天国でもハラスメントで人が死ぬ。友達がトートバッグに「FREE PALESTINE」のバッジをつける。死んだ人は天使になれる。天使は地獄について考える必要がない、ということだけがたしかだ。


 医学科の講堂に100人分以上の地獄が同時に存在している。日本の医療の未来は暗い、と、地獄みたいなところで働いている先輩が教えてくれる。もう医師は、昔ほど金持ちにはなれないよ、と、地獄みたいなSNSで誰かが教えてくれる。それでも、1000万か2000万くらい稼げば、この日本では金持ちとして扱ってもらえるはずだ。

 循環器が駄目になって人が死ぬ。消化器が駄目になって人が死ぬ。免疫が駄目になって人が死ぬ。死を延期する方法を、僕はひとつずつ学んでゆく。目の前に現れる救えそうな患者をちょっとずつ救って、40年後に金持ちになる。僕はかならず地獄で金持ちになる。おまえは繰り返し、何度でも僕を羨む。


 小さな声で僕が泣いていると、それを歌だと勘違いしたやつらが集まってくる。そのあいだだけ、僕は自分が天使になったみたいで、少しだけ安心できる。

(了)

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Aomatsu Akira
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