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モチヤモチヤ

みたらしだんご。

手で餅を一つ一つ丁寧に丸めて、串に刺す。炭火でこんがりと焼いたそれには、まだ熱いたれがたっぷりかかる。
その店の小さなショウウインドウに並べられて、うっとりと光る。だから、瞬く間になくなっていくのだ。


株式会社オーノ。今の私を幸せにしてくれる会社。グーグルで探しても、絶対出てこない会社。
今日は、そのお話をちょっとしてみたいと思う。



この小さな町に帰ってきた時、私はきっと負け犬だったんだと思う。
仕事を辞めて、食べたいものも食べなくなった。着たい服を買わず、好きな人との写真は捨てた。

「この町にはなにもないからねえ。」
ばあちゃんはよく笑って言った。本当に何もなかった。旧市街にいくつもの商店。でも、店内には何も置かれていなかったり、シャッターが降りたままだったり。

町全体が、老いていくみたいだった。

なんでも手に入る、好きなところへ行ける、そんな大都会から帰ったばかりの私は、当時、28歳。こんな町にいていいんだろうか。ずっと考えていた。でも、私には他の選択肢はなかった。全てを捨てて、帰ってきてしまった。この何も無い町に。

小さい頃、私はこの町が好きだった。
ばあちゃんがいて、カブトムシがいた。トウモロコシ畑で走り回ったり、山に登ってバーベキューをしたり、小川に入って遊んだり。特別なものなんていらなかった。ただこの町にいるだけで毎日は楽しく過ぎていった。

大人になって。
なんてつまらない場所なんだろう、そう思った。私はもう子供じゃ無い。何のためにここにいるのだろう。


そうこうしているうちに、時が流れた。私はドイツで出会った男性と結婚した。はるばる日本までやって来て、一緒に住んでくれるといった彼。私は心配だった。
「何もないよ。つまらない町だよ。」
と念を押した。


その店を見つけたのは夫だった。
仕事から帰るなり
「面白い店を見つけた。」
と興奮している。
普通の白い家の見た目なんだけれど、「株式会社オーノ」と書かれている。玄関を入るとそこは小さなカウンターになっていて、ショウウインドウに餅がたくさん並べられている、と。

大福餅、草餅、くるみ餅、みそ餅。
「でもね、」
みたらしだけがないの。たれのついたトレーだけあったけど、肝心のみたらしだんごは全部なくなってた。

へえ。

ちょっと興味があった。というのは、私はみたらしだんごが大好きだからだ。
誰が言い出したんだろう。焼いた餅に、醤油と砂糖を混ぜたものを熱くトロトロかけようだなんて。


山に向かって坂道を登っていく。蝉がよく鳴いていて、もうすぐ自分たちの命が尽きるなんて知らないみたいだ。神社があり、野菜の無人販売所があり、書道教室がある。
また坂を登ってすこしすると、その白い家に着く。入り口にハガキが貼られていた。小さく「やってます」と書いてある。知らない人からしたら、なにを「やっている」のかよくわからないだろう。


思い切って入ってみると、小さく、リンリンと鈴の音がした。奥からおばあさんが出てくる。腰が曲がっているけれど、いきいきと楽しそうな表情だった。


株式会社オーノは、この95歳のおばあさんともう亡くなったおじいさんと二人で戦後に立ち上げた餅屋。おじいさんが、町の人たちに、当時はご馳走だった餅という食べ物を、手頃な値段で食べさせてやりたい、という思いから始めた小さな小さな店だ。

町の中にあった店舗は老朽化して、今はもうない。一度はたたもうと思ったが、娘夫婦の家の一角で、こうして続けて行くことにしたそうだ。

おばあさんの第一声。
「あのね、みたらしはもうないけど、他のならあります。みたらしはね、言っておいてくれれば作ってとっておきますからね。」

優しい声だった。初めて店に入る客にそんなに優しく話しかけるのか、と驚いた。親戚のかわいい女の子に話しているような、申し訳なさそうに、でも励ますように、私に言ってくれた。

「じゃあ、今日は草もちを5ついただきます。明日、みたらしを10本とりにきます。」

夫が横で、流暢に日本語で話すからおばあさんは一瞬、面食らった顔をして、それでもすぐに優しい顔に戻って言った。

「わかりましたよ。お待ちしてます。13時に出来上がります。」

草もちのお金を払って出た。草もちは一個110円。みたらしは一本120円。それもおばあさんの手書きで書いてあった。

「みたらし 百二十」

帰り道、私は嬉しくなっている自分に気がついた。
「次は、麦こうせんっていうのを食べてみたいな。おはぎ。」
「麦こうせんってなに?」
夫が聞く。
「わからない。多分、知らない日本人が多いんじゃないかな。薄い小麦色の粉がかかっていたね。」
「明日、みたらしを受け取るときに、買ってみよう。」

草もちは、とても美味しくいただいた。特別とはこのことをいうんだな。おばあさん自ら山に登って採ってきた野のよもぎを使ったという。一口食べれば静かな森と、そこの葉を揺らす透明な風が駆け巡った。


次の日。

そのおばあさんは慣れた手つきで、テキパキと包んでいく。10本のみたらし団子に2個の麦こうせん。それから、縄文餅という黒米で炊いた餅も買ってみた。

どれもこれも美味しそうだった。カウンターには数限りない餅が並んでおり、そのおばあさんが仕入れから店番まで全てひとりで行なっているとは到底想像もつかないのだった。

包まれたつぶ餡は、なんとも上品な甘味でまとめられ、奥ゆかしい風味のこうせんや穀類をベースにした生地とよく合うのだった。豆と砂糖。餅と穀類。ちょっぴりの塩。それだけがシンプルに合わさって、豊かな味の表現を見出していた。

そしてみたらしだんご!
炭火の匂いを吸い込んだ餅が、冷えてちょうどよく固まり始めたたれをうまく連れてきて、口の中で美味しく混ざり合う。
串には4個。4回訪れる幸せ。

株式会社オーノの餅。一口食べて、二口食べて。最後の一口を飲み下したとき、確かに、私の心は幸福で満たされたのだった。



それからというもの、夫と
「なんか疲れたね」っていう日
「よく頑張ったよね」っていう日
「仲直りしよ」っていう日
オーノで甘味を買うことにした。
行けば、みたらしはいつもなくて、他の餅を買い、みたらしを予約する。そして次の日に取りに行く。だから、1度行くと2日食べられる。

いろいろなお餅を試し、みたらしだんごで満足し、おばあちゃんに挨拶をして、少し元気になる。私たちはそれが好きだった。



そんな日が続いた去年の夏、「臨時休業」とハガキに書かれるようになった。行ってもやっていない、という日が少しずつ増え、あるときから、そのハガキは貼られっぱなしになった。

例の流行病なのか、物価の上昇なのか、はたまた店主のおばあさんの具合でも悪いのか、と想像してみたけれど、オーノは一向に開く気配を見せなかった。もう、あのみたらしだんごを食べることはできないのかもしれない、と思った。

それから今まで、その店にはいかなかった。どうせいっても、また「臨時休業」を見てがっかりするだけだし、あの懐かしい味を思い出して悲しくなる気がして。



先週、夫と大げんかをした。
私が原因だったとは思う。その時の私には、一つだけ嫌なことがあった。
音楽を聴いても、ポテチを食べても、長く歩いてもその嫌な気持ちは消えなかった。

きっかけは些細なことだったとしても、その火種は徐々に広がり、燃え盛り、水をかけてもびくともしなくなった。

離婚の話まで出たのは、これが初めてだ。当たり前に一緒にいた二人が、こんなにも簡単に関係を終わらせることができるということに、思わず愕然としてしまった。でも、その話をした。


昨日、夫が紙袋を下げて帰ってきたときは、だから本当に驚いた。
またやってたの?と聞いたら、嬉しそうに頷く。夫は、短気な私とは違う、よく仕事の後に散歩に出かけて、ほとんど毎日のようにそのハガキを見に行っていたらしい。


「臨時休業」だったそれは新しく書き換えられた「やってます」に変わり、店主のおばあさんもとても元気だったとか。

久しぶりの麦こうせんのおはぎ。縄文餅にゆずだんご。オレンジ餅の入ったもなか。草餅にいちご大福。そして、みたらしだんご。

せっかくだから、外で食べようよ。
いいねえ。

日が暮れた山を少し登って、近所の神社へ行った。蝉が鳴く。風が吹く。誰かが花火をしている。


いろいろ買い込んだねえ、と端から順に、じっくり味わっていく。甘くて丸い、餅の味。歯を立てたらそれを飲み込むように、口の中をたっぷりと包んでくれる。

一回休んでも、またやる。つまずいても、続ける。それがオーノのやり方で、このみたらしたちはまた、誇らしいような顔をして私たちのところにやって来たのだった。


「どうしてこの店のお餅はこんなに美味しいんだろう。私もみたらしは何度か挑戦したことはあるけれど、どうしてもこんな風に美味しくはできないのね。」

すると夫は自信満々に言う。
「モチヤモチヤ。」

モチヤモチヤ?

「そう言うでしょ。」

ああ。

餅は餅屋、ね。

「そう、モチヤモチヤ。」

この人は笑っている。私だって、人生の困難な坂道のふもとにいても、ただ笑っていられる存在でいたい。


また、なまぬるい風が吹いた。
滴りそうになるみたらしのたれを舐めあげて、空を見た。

この町は、雲と星がすごく綺麗で、山に囲まれていて、小川から澄んだ水の匂いが立ち上ってくる。
とても大切な家族が住んでいる。私がときにないがしろにしても、必ず味方をしてくれた人たちだ。

そして株式会社オーノがある。

株式会社オーノは、今年、創業60年だ。
ずっとそばにあったのに、ずっと探さなかった。見ないようにしてきた。

「自分で目隠しをして、生きてきたようなものだね。」

呟くと、夫は「?」と頭の上に浮かばせて、もう団子がついていない串を何度も舐めた。

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