終電の人
ねえ、アタシ。まだ起きてる?
もしよければ、迎えに来てほしいの。
まだ何も聞いてないのに怒らないでよ。
これを聞いたら、ちょっとは協力してやるかって気持ちになるんだから。
アタシが乗ってたのはいつもの終電よ。酒臭いサラリーマンとか、酒臭い大学生とか。みんなびっくりするほど同じ匂いさせてんだけど、お互い絶対トモダチになんてなれない雰囲気なの。わかるでしょ。
人のこと言えないっていうけど、はずれ。
今日は飲んでなかったの。飲まなかったのよ、あの人。驚くことに。
まあ聞いてよ。
お店に来てくれた時は、すごくよかったの。たくさん飲んで、笑って。話したとおりよ。でも、デートってなったら全然だめなの。かっちりしたスーツなんて着ちゃってる割に、ガキみたいなデートコースで私を引っ張りまわすんだから。もうこりごりって思っちゃった。
でもね、最後のチャンスを与えることにしたの。アタシだってもう若くないんだし、こういうのも次いつになるかわからないじゃない。
大きなキャラメルポップコーンを買って、映画を見たいって言ったの。貧乏な学生みたいでしょ。もちろん、冗談よ。そしたらあの人、本気にしちゃって。生真面目っていやあねえ。そこから、頑張ったの。お店でぴんときた、あの感情が戻るようにって。
でも、一回駄目って思ったものは駄目ね。お店の前に化粧するじゃない。そう、化粧。ちょっとイマイチっておもったら、もうその日は何してもダメなのよ。それと同じ。
とにかくそんなだから、飲まないままでこの時間よ。食べきれなかった大きなポップコーンの箱。捨てるわけにいかないから、抱えてねえ。
終電に飛び乗った時、目の前にある光景が広がっていたの。いつもと同じ光景。なのに、慣れることってないのね。
そのまま空いている席に座って、ポップコーンを胸に抱えた。その箱を覗き込むみたいにして目を閉じたの。こういう時は眠っちゃった方がいいから。顔の下からは、ほろ苦いにおいが立ち上ってくる。
ああ、またうまくいかなかったっておもった。
目を閉じていても、視線を感じるわ。
セーターは胸元がしっかり開いて、乾いたウィッグが蛍光灯を照らし返す。
見たことがないほど大きなパンプス。そこに収まった脚はすっかりむくんでいて、ストッキングの下には小さな毛がうっすら見えるんだものね。
ぎょっとして、戸惑って、見ないふりをしながらやっぱり見るの。だって、可笑しいものね。アタシ、明らかにおじさんだから。
膝上のスカートをはいていても、唇を赤く塗っていても、髪が長くてもやっぱりおじさんだもの。
次の駅で、大学生のグループが乗ってきたの。酔った女の子と終電に乗るのが、なにか先頭を切ったように思っている輩よ。彼らは、次の駅、また次の駅といくにつれ、ひそひそと笑い始めた。嫌な予感がしていたのはアタシだけじゃないと思うわ。
そういうのって的中しちゃうから本当、いやんなる。
突然、電車が大きくゆれたの。
ちゃんと抱えていたはずの箱が傾いて、あっと思った時にはもうだめね。床一面がポップコーンだらけだった。
他の乗客は見て見ぬふりをしながら、それでも気にせずにはいられないようだった。向かいに座ったおとなしそうな主婦なんてさ、眼鏡の隅を使ってちらちら見ちゃって。
大学生のグループは、さらに熱を帯びたわ。くすくす笑いながらアタシの寝顔を覗き込んだり、写真を撮ったりした。
薄暗い車内にひびく、電子シャッター音。繰り返されるたびに車内の空気が嫌に波立っていった。
ああ、何も知らない顔して降りちゃいたい。
でも、降りたら次なんてない。終電だもの。
そしたらね、声がしたのよ。遠くから静かに響くように。
あげなさい。
そういうの。でもね、誰が言ったのかわからないのよ。
それから、は?っていう声がしたわ。大学生ね。明らかに挑発したような、いやな音程だった。そしたら、今度は少し大きな声でこう聞こえたの。
寝かせてあげなさい。
それを聞いた時、思ったわ。
アタシ、この声を知ってる。
どこで聞いたのか、まったく思い出せないの。でも、確かに聞いたことがあって、その時も同じように、アタシをかばってくれたはずなの。
へんね、そんないい男だったら絶対覚えてるはずなのに。
その人の顔を一目拝みたかったけど、やめておいたわ。
学生なんてどうでもいいの。すがるような顔をその人に見せたくなかったのよ。そのまま眠りこけたふりをしていた。
こんな状況で眠れる人なんていないはずなのに、不思議ね。誰もアタシが起きてるって気づいていないの。
それから車内は静まり返った。
足の下で車輪がレールを叩き続ける。その音以外には何も聞こえなかったわ。
ひとり、またひとりと、開いた扉から切り取られた暗闇の中に消えていった。アタシは自分が作り出した暗闇のなかで、それでも耳を澄ませたの。
あの人が席を立ったとき、すぐにわかったわ。
だって、聞こえたから。ゆっくりと息を吸って、ポマードで濡れた髪を触るの。そして軽く肩を回して、静かにため息をつく。
アタシ、それでようやくわかったの。
あなただったのね。しばらくぶりだから、思い出すのに時間がかかっちゃった。
こうして毎晩電話で話しているのに、いざ会うとわからないものねえ。
改めまして、さっきはありがと。アタシ、あれでも結構、感激してたのよ。小さい頃はよくかばってもらってたけど。こんな姿になってからはあなた、ほとんど口をきいてくれなかったから。
ねえ、思ったの。
あなたにこうして電話するの、今夜で最後にしようかしらって。
だって、バカみたいじゃない。こうして毎晩かけていても、あなたの声は一向に聞こえない。なのに、たまたま乗った電車のなかでばったり会うなんてね。
アタシ、また終電にのるわ。そして、目を閉じる。
だれかがからかってくれれば、あの人が現れる。知らない人。終電の人。
そしたら、またあなたの声を聴けるんだものね。
だから、パパ。もうかけないわ。
心配しないで、アタシから切るから。
続きを寝てね、おやすみなさい。
◇
これは私がやっている執筆LIVEで書いたものです。
おかげさまで10日を迎えました。次はDAY11。
今週土曜5月4日からスタートです。
どなたでも参加できます。書きたいことがあるけど、なんとなく後回しにしがちという方は一度きてみて、ぐっと集中してみるのも楽しいですよ。