見出し画像

我慢することが上手になってしまったらしい

我慢することが筋金入りに得意になってきてしまっている。
長いあいだ、認めたくなかったけど、ぶっちゃけそう。

でも絶対にやめられない、我慢は。とも思っていて、どうしたらいいかわからないときがある。

自分に優しく、ご自愛をしていれば、それを癖にしていればこれも治るんだろうか。


先日、コロナで救急車に乗った。運んでもらっている間に「え、カロナール飲んだのに38越え?きついな・・・」と隊員さんの声がして、あれ、我慢しすぎたのかな、とはじめて気づいた。


そのあと、点滴を打ちながら肺炎を検査するためのCTを順番待ちする間、医師が私のところに来て「微熱さんねえ、ちょっと我慢しすぎ」と苦笑いで言っていた。


まずいな、って思ったらもっと早い段階で呼ぶべき、だそうだ。まずいって思わなかった?きつくなかった?そう聞かれて、正直「まじできつかったです」と言いたかったけど、じゃあ何で呼ばなかったの!と怒られそうだから「あんまりわかりませんでした」と言った。


医師は「まあ、朦朧としていたのかもしれないね、判断できなくなるほどの熱だから」と言って去っていったのでほっとした。


自分でも、正直言って我慢したのか、それとも判断できなかったのか、よくわからない。あんまりわからなかったと言えばそうなんだし、これくらいみんな我慢している、と思ったのかもしれない。こんなくらいで救急車なんて呼んじゃだめだ、と。


蛙が湯の中に飛び込むと、という話はとても有名だけど、私はまさに、ゆであがった蛙になってしまったんだと思う。
蛙は熱い湯に入れられると慌てて飛び出るけれど、冷たい水からだんだん加熱していくと、熱くなっていることに気づかず中で茹であがって死んでしまうというもの。


私は、昨日から今日、今日から明日の苦しさの中で、苦しさというものがどういうものなのか、すでにわからなくなってきている。
苦しいか、と聞かれるととても苦しい、と答える自信があるけれど、じゃあ、昨日は耐えた、その前も。じゃあどうして今日はダメなんだ、と聞かれると答えられない。


今まで大丈夫だったのなら、今日だって明日だって何とかなると思いながら、限界までいることが多い気がする。



ところで私は今、とてもかわいい絵を描いている。描いていて、出来上がって、幸せになるような絵だ。自分でもそう思う。なぜかというと、描いて1か月たっても半年たっても、その愛おしさは変わらなくて、むしろどんどんかわいくなってきていると思うからだ。


でも、その可愛さはシーソーにまたがっている。そしてもう片方には私が載っている。その可愛さが上がれば上がるほど、私は下がっているということになる。下がっているから、その絵が描けるのだ。苦しくない、楽しい。楽しいところだけ見ていると、そういう絵が描ける。


こんなかわいい絵を描いておいて、そういうイメージダウンするような発言はよくないのかな。そのうちショップで売り出すから、あまり言わないほうがいいかもって思いながら、それでも書いている。


出来たものは可愛くても、私はかわいくない。
私の中の渦はちっともかわいくない。


それでも、描いていると本当に気分がよくなる。絵は苦しくて、楽しい。私は、自分とは関係のない遠いどこか。きれいな色が並ぶワンシーンを切り取って、その中から美しさを見出すような時間が欲しい。


そうでなければ、今の自分のもつ井戸を覗き込まなければならない。井戸の中の暗闇も自分を覗き返す、といった偉い人がいるみたいだけど、井戸の中の暗闇は、自分を覗き返したりしない。

暗闇には目がない。暗闇は暗闇で、自分はたった一人だ。自分しかいないのだから、底は孤独で、井戸はいつまでも暗いままなのだ。





いいなと思ったら応援しよう!