【小説】部費会議
その日文芸部一同は、顧問の猪木先生から困ったニュースを知らされた。部費が来季から三分の一減らされることになったというのである。これでは部誌の印刷代がまかなえない。先生は今から部費の減額を取り下げてもらえないか頼みにいくという。しかし、今回の部費削減は学校自体の予算の縮小によるもので、嘆願が受け入れられる可能性は低いともいう。困ったことになった。
先生が去ったのち、一同は緊急の会議を開くことにした。来季からの部費のことについて、よく話し合っておかねばならぬ。そうしないと部誌が出せないし、部誌が出せなくては文化祭や新入生勧誘のときに見せるものがないのである。幸い今日は部員八人のうちの七人と、OBの栗本くんがそろっており、この緊急の案件についてじっくり話し合うにはいい機会であった。
「えー、それでは、時計回りにみなさんの意見を聞いていきたいと思います」
口火を切ったのは、書記の相生くんである。この文芸部に書記という役職はない。しかし相生くんはとても字がきれいなので、いつしか書記と呼ばれるようになった。文芸部一同には書記というあだ名の彼がなんとなく会議の進行役に似つかわしく思われたので、相生くんが司会進行を務めることになったのである。
「では、私から」
最初の発言者は、部長の田村さんである。田村さんは現在三年生で、中学のころから文芸部に入っている、生粋の文学少女である。小学校五年生のときに読んだ菊池寛の「父帰る」に感銘を受け、戯曲ばかり書いてきて小説を書いたことがないという、今どきの高校生には珍しいタイプの文芸部員であった。菊池寛を崇拝する田村さんの戯曲は、二〇二〇年代の高校生が書くものとしては甚だ古臭く渋い趣味のものであったが、その古臭さが逆に新鮮さと感じられるような作品で、コンクールなどではたびたび高い評価を受けてきた。部内からの信頼も篤い。大学は文学部に進学し、演劇を専攻して戯曲を書き続けるつもりでいる。
「私が思いますに、今回の件で問題となっているのは数字ではございません。文学に携わるものの会話で、千円だの一万円だのという数字について話し合うのはナンセンスです。と言いますのは、文学はつねに数字の暴力に逆らうものだからです。
私たちに足りないのは、お金ではありません。ロマンです。現代の人々はロマンを失っています。そうではありませんか?なにか美しいことが起きることを期待せずに日々を送っているせいで、本当に奇跡が起こってもそれに気づかない。ロマンを感ずる心が摩耗しているのです。
それは私たちが、常日頃からロマンに対してブレーキをかけているからです。なにか、日常を離れたことが起こるかもしれない。そう心が期待するやいなや、いや、そんなことはない、そんな夢見がちなことを考えていてはこの社会を生き抜くことができないぞ、と理性で心の動きを押し止めているのです。ロマンを封ずることを、冷静でリアルな現状認識だと勘違いしているのです。そうしてブレーキをかけ続けているから、いつの間にか心の方もすり減ってしまっているのです。
猪木先生は部費が減らされることはほとんど確実であって、へんな期待をしてはいけないとおっしゃいました。私、先生のお言葉に反対するわけではございません。しかし、期待をする心そのものは、忘れてはならないと思うのです。ロマンが必要です。ロマンチストたれ!私たちは、期待を抱いて先生が吉報を持って帰ってくるのを待っているべきです」
次の発言者は、一年生の太田くんである。太田くんは中学校のころから小説を書くのを密かな趣味としていた。中学時代はそれを押し殺して陸上部に入っていたが、高校に入るに至って創作のエネルギイを押さえきれなくなり、同士を求めて文芸部に入部した。彼の父親は数学の教師である。彼は父から、趣味として文学をやる分にはいいが、大学はぜひ理系の学部に進むよう勧められていた。そのほうが彼の将来にとっていいと言うのである。太田くんとていっぱしの高校生男児であるから、父の言に表面上反発していたものの、心の中ではその理屈に納得している自分もいた。というわけで、彼は二年生からの文理選択で、どちらの道に進むべきか甚だ悩んでいる。彼は田村さんを尊敬している。田村さんは周りの目線など気にせず、自分のやりたいことを一心に貫こうとしているからである。太田くんは田村さんのこたびの発言にも深い感銘を受けていた。
「僕も、田村さんの言うロマンが大切だと思います。だいたい数字がなんですか。数学でやっていることが、僕たちの生活にどんなふうに関わっているんでしょうか。数学ではマイナスとマイナスをかけたらプラスになるなんてあたりまえのように教えますけれども、僕たちの生活に「マイナス同士をかける」なんて行為はないはずなんです。
一足す一は二ですか。こんな単純な数学的真理さえ、僕たちの生活のなかではとたんに真理とは言えなくなります。いいですか。この紙に、こんなふうに線を引いてみるとしますよね。で、もういっかい、その線に続けるように線を引くとします。これは一足す一で、二になっているでしょうか。たしかに線の長さは二倍になりました。しかし、線そのものは一本のままです。ここに数学の嘘があると思います。
僕たちはロマンとともに生きることで、このような数学のウソから離れることができます。部費の数字が減るのは数学です。僕たちの生活はロマンです。ロマンのほうが数学よりも何倍も価値があります。だから、今回のことにもロマンをもって挑むべきだと思います」
次の発言者は、これも一年生の牛見さんである。牛見さんの家は太田くんの家と違って生粋の文系一家で、親戚中見回しても理系の人材が一人たりともいないほどである。牛見さんが文学部に進むのか、法学部に進むのか、はたまた地域総合コミュニケーションデザイン学部に進むのかは彼女自身にもまだ不明瞭なところであるが、とにかく文系の学部に進むことだけは確実であって、牛見さんはそれを疑ったことはない。文芸部に入ったのも、そうしたいわば運命的な、あるいは宿命的な義務感に動かされた結果であった。彼女の家は裕福で、お小遣いも十分にもらっている。金勘定など考えたこともない。したがって、彼女としては今回の議題にあまりついていけていないところがある。お金が足りないならば、足せばいいと思うからである。とはいえ、そんなことをわざわざ言わないくらいの分別も、牛見さんとて持っている。
「そうですね。部費の問題は深刻だと思います。それに対してロマンを持って臨まなければならない。たしかにそうです。
たとえば私の家では、昔こんなことがありました。母が大切にしていた指輪が、いつの間にか失くなってしまったのです。どうやら落としてしまったようなのです。家族総出で家中探しましたが、どうにも見つかりません。母は大変悲しみました。その指輪は昔フランスで買った限定品で、もう新しく買い直すこともできないらしいのです。
私、どうやったら母の気持ちを慰めることができるか考えて、百貨店をあるき回りました。ずいぶん探したのに指輪は見つからないのですから、もう新しいものを買うしかないと思ったのです。同じ指輪でなくとも、母の心の慰めにはなると思ったのです。
ところがある日、家の中から指輪が出てきました。私と違ってしつこくしつこく指輪を探し回っていた妹が、ついに箪笥の下に落ちていた指輪を見つけたのです。これには私、恥じ入りました。もっと希望をもって探せばよかったのです。見つかることを信じて探していれば、いつか見つかるものなのでしょう。私、そう思いました。これがロマンではないでしょうか」
次の発言者はOBの栗本くんである。高校を卒業して二年、今は近隣の大学の文学部で『源氏物語』を読んでいる栗本くんにとって、今回の部費の件ははっきり言って無関係であり、猪木先生にあいさつをしに来ただけの自分がいつまにかこの会議のメンバーに加えられたことに甚だ困惑していた。それでも彼は、OBとしての威厳は保たねばならぬと考えた。後輩たちから、意見を持たぬ役立たずのように見られては心外である。しかも、後輩たちとはひと味違った論点を付け加えなくてはならないだろう。それぐらいできなくては、大学に入って何を勉強しているのかと嘲笑されるだろう。
「たしかにロマンは大事だね。しかし、現在の社会状況ということも考慮に入れてもいいと思う。つまりね、たとえばいまは大学の文学部だってさまざまな予算が削られていて、だんだんと苦しくなっている。今回の部費の削減は、こうした文学部軽視の風潮と不即不離のものじゃないだろうか。
なぜ文学をすることが、こんなに安く見られなければならないのだろう。明治以来の歴史を見れば分かる通り、日本が一等国になるために必要だったのは経済力や軍事力だけじゃない。文化の力もそれに大いに預かってきたのだ。そしてそれは、なにも百年前に終わった話というわけではない。日本に『源氏物語』があり村上春樹がいることが、どんなに日本の国際的な地位に寄与していることか!これは、掃除機やエアコンにはできない祖国への貢献の仕方だ。
いや、もちろん国のために文学をやっているわけじゃないんだ。好きだからやっているんだ。でもその好きだというのは単に好きなのではなくて、大きな意味の中にある営みなんだ。なんでそれが伝わらないんだろう。僕は政治家や官僚の頭の中がわからない。彼らはドストエフスキイを読み夏目漱石を読んで、自分の人生について思いを巡らせたことはなんだろうか。この国は、自分の中にある文化について改めて見直すべきだと思う」
五人目の発言者は二年生の歌島くんである。歌島くんは色が白く、身体は細身ながらひょろひょろしているという印象を与えない。顔立ちも整っている。美少年である。彼には自分が美少年であるという自覚があり、かつ美少年であるということの空虚さも自覚していると考えている。彼からすると人生はそれなりに取り組めばそれなりにうまく行くものであって、だから必死でやるほどの熱意もないのだけれども、熱意がないところに熱意を持つことには、最初から熱意を持てるものに持つことよりも格段に大きな意味があるように感じられる。このたびの部費をめぐる騒動ももちろんくだらないものではあるが、それをくだらないと切り捨てることがあまりに容易なので、議題に真面目に取り組むことにした。
「僕は、これは行動の問題だと思いますね。認識だけを云々して、なにか現実が変わるでしょうか。あるいは、部費の削減を不服として異議を申し立てたって、それは多少の「行動」ではあるけれども、大した意味は持たないでしょう。なぜなら猪木先生がおっしゃっていた通り、部費が削減されるのは学校全体の予算の問題であって、文芸部のみならずすべての部活が同じ処遇を受けているからです(ここで歌島くんは、ちらっと栗本くんの方を見た)。
部費がないという現実を変容する行動が必要です。ここで話し合っているだけでは、我々の手が「現実」の背に届くことはないでしょう。「現実」は常に私たちの鼻先で走っているように見えて、実ははるかな蒼穹の中でそ透明な翼をはばたかせているものですから。それを我々は、「行動」の矢で射殺さねばなりません。文芸部にはいま八人の部員がいます。この会議に二時間かかるとしたら、時給千円でバイトして、八人で一万六千円になりますね。これだけあれば、部誌を発行するには十分でしょう。世界を変えるのに必要なのは、認識ではなく行動です」
歌島くんとしては、会議全体の存在意義を揺るがすような発言をしたわけだから、当然反論が出るだろうと思って反応を少し待ってみた。ところが、部員からは慣性運動的な拍手があるのみである。あり得べからざることである。歌島くんは少しく失望したが、「無」は「無」でも「無」があるという「有」なのだと考えて、気分を持ち直した。
次の発言者は二年生の佐藤さん。彼女は、今日欠席した唯一の部員である新村くんと付き合っている。新村くんはとくに理由もなく今日の部活をさぼっているのだが、このあとに佐藤さんは新村くんとデートの約束がある。新村くんはマイペースな性格で、基本的に四捨五入でかたのつく範囲なら誤差だと考えるタイプなのだが、なぜだか時間には非常に厳しい。少しでも約束に遅れると、大変怖い。というわけで佐藤さんは、会議の長引かないように、簡潔に簡潔に、発言した。
「この件は猪木先生も交えて改めて相談すべきだと思いますから、明日の先生からの報告を待ったほうがいいのではないでしょうか」
最後の発言者は三年生で会計の鈴本さんである。本来ならば会計である鈴本さんがこの問題に最も真剣に取り組む必要があるのだが、鈴本さんの心中はいまそれどころではない。推していたvtuberが炎上し、引退するかどうかという瀬戸際なのである。ファンの女の子をなぐったわけではないのだが、未成年に飲酒させた疑いがあるのだとという。鈴本さんからすれば彼の声を聴くだけで酔ったような気持ちになるのだから、実際にアルコールを飲ませたかどうかなど些細な問題だが、世間はそうではない。それに、今までのスパチャ代三万円が無為になってはたまらないという気持ちもある。というわけで鈴本さんにはこれまでのやりとりが全く耳に入ってこなかったし、なにが議題になっているかということさえやや曖昧であった。
「あ……そうですね。あ、鈴本です、どうも。部費、部費ですね……。部費を上げたらうまくいくんじゃないですか、うん。あ、でも部費が上がったらみんな困りますよね。私も困りますし。猪木先生もきっと困ります。みんなが困るのは、ちょっと大変ですよね。
え、いまの会計の状況ですか。えーと、まだちゃんと計算できていない部分があるので、帰ったら計算して全体ラインに上げますね。あ、でも帰ったら……。ちょっと今日は用事があって……。えー、今日中には難しいかもしれないんですけれども、ちゃんと計算しますから。大丈夫です。
あ、でももしかして、減額後の部費がわからなかったら計算できないんじゃないですか。だめですねえ。え、猪木先生が数字言ってましたっけ。いくらでしたっけ。え、誰も覚えてない。じゃあやっぱりだめですねえ。帰ったら計算しておきますね」
そのとき、チャイムが鳴った。一七:〇〇のチャイムである。佐藤さんがすぐさま、「今日はこのへんにしときましょう!」と提案した。書記の相生くんとしてはもっと話し合うべきではないかと思ったが、部長の田村さんが「そうですね、みなさん予定もあるでしょうから」と大人な発言をしたので、黙っておいた。
佐藤さんは新村くんとのデートに走った。栗本さんは猪木先生と話すのを諦めて、バイトにでかけた。鈴本さんは推しの炎上後初配信をライブ視聴しに家に帰った。牛見さんと歌島くんは、特に用事はないが帰宅した。部内には、田村さんと太田くん、書記の相生くんだけが残った。田村さんは戯曲を書いている。太田くんは小説を書いている。相生くんは書記らしく今日の議事録を作ろうとしたのだけれども、まあ今度また話し合うだろうと思って、数学の宿題をやることにした。
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