宮本浩次の音楽を解剖する - カバーアルバム「ROMANCE」より
(2020年12月に書いた文章の再録です)
0/ 前書きにかえて:
私の育った家では、歌謡曲が一切禁止されていた。歌番組は見せてもらえないし、小学校でお友達から聞きかじった曲をピアノでポロンポロンと弾いてみようものなら、母が台所から飛んできて「そんな曲は変な癖がつくから弾いたらだめ。お稽古の曲を練習しなさい」と烈火のごとく怒った。そうして私の音楽はほとんど全てクラシック音楽で形成された。
そんな私がカバーアルバム「ROMANCE」を契機に宮本浩次に魅了され、その素晴らしさを熱っぽくしゃべっていると、友人たちが笑う。なんでクラシック音楽好きのあなたが宮本浩次の歌謡曲カバーなの、と。
でも私にとってはいたって当然の、自然な成り行きなのだ。
なぜって私がクラシックのお稽古で習ったテクニックを、宮本浩次の歌心が見事なまでに体現しているから。音楽のジャンル分けは無意味だとひしひしと感じる。
だから原曲のバックグラウンドもロックの歴史も知らない私が宮本浩次を語るなら、私にしかできないやり方でその音楽を解剖し、宮本浩次の丁寧なフレージングや多彩な表現力の息づかい、美しい母音や鮮やかな描写力の子音について書いてみようと思った。
声がいいとか歌がうまいとか、歌に愛があるとか心にしみるとかってどういうことなのか。
歌唱テクニックを一つずつひもといてゆくことでそれらを明らかにしようと思った。
1/「あなた」について:
「あなた」という言葉は女歌で最も頻出度が高い単語ではないかと思うが、実に発音が難しい。
3音とも同じ母音「あ」でありながら、間にNとTの子音がはさまることによって、「あ」よりも「な」が奥まってしまったり、「た」を下にたたきつけてしまったりしがち。まして音程がついてくるとニュートラルな発音の自然な「あなた」ってなかなか言えないものである。
曲中に14回もあるこの単語を、宮本浩次は少しずつニュアンスを変えながら全部違う表現で歌い上げる。
「私の夢」を表したようなファルセット多めの夢想的で優しい1連目の「あなた」。
同じファルセットではありながら身体の下からの支えがしっかり効いた2連目の「あなた」は夢を現実に変えようとしているのか(ということは高音だからファルセットに逃げているわけではなく、意図的にファルセットの量を増減して表現意図を変えている)。
そして3連目の嗚咽のような激しい「あなた」を3度。
4連目の「あなた」は少しずつ苦しさがなくなって下の支えをカットし、また優しいファルセットへ滑らかに戻っていく。
しっかり者の優等生的な女の子がやりがちな、こんなくっきりした妄想を描かれたら、男の子はそりゃあ他に女作って逃げていくよね… しばらくはこの歌を冷静に聴くことができなかった。
去られた悲しみ、愛する人を奪われた悔しさや嫉妬、怒り、憎悪、苦悩、修羅場にいるという恥ずかしさ、こんなどうしようもない自分に対する情けなさ。ありとあらゆる感情が3連目の「あなた」に込められていると感じる。そして繰り返し聴いているうちに、何十年もの間封印してきたこれらの感情が宮本浩次の歌によってすべてきれいに洗いあげられ、生まれたばかりのありのままの素の私に浄化されていくのを感じる。
2/「異邦人」について:
宮本浩次の声は調性によって声の色彩が違うと思う。平均律ではない。調性が変わると声が音程を移動するだけではなく、色調そのものが変わり、曲ごとに違う音色の声を出す。それぞれの調性の和音、倍音がひと声ひと声に含まれている。だからどんなに音程が飛んでも、いちいち喉で音程を切り替えずにひと息にワンフレーズを歌える。だから語尾や助詞だけが飛び出すことがなくデリケートなレガートで、日本語がきれいに聴こえる。倍音が含まれているから、身体を使って息を流すことで倍音を増やして曲を盛り上げていったり、倍音をカットしてささやくように消え入ったりする。
このテクニックは「ROMANCE」のどの曲にも言えることだが(というか「宮本、独歩。」でもエレカシの曲を歌うソロライブでもそうだ)、「異邦人」では特にその技法が魔法のように披露される。ポイントは短調と長調の切り替えだ。
短調が終わる「信じていたー」の「たー」を、音程が上がるにもかかわらず、「い」と同じポジションに置くことによって微妙にピッチを下げている。和音を完全には解決しない。音程をすぱっとキメたくなるところを宮本浩次はあえてそうせず、寸止めする。
そのため聴いてる方は一瞬言葉にならない違和感を感じて心奪われているうちに、次のフレーズ「空と大地が~」で一気に長調に転調する。
「信じていた」の「た」と「空と大地が」の「そ」は同じ音程の音符だが、短調か長調かで全然ピッチが違うことに気づく。
そして長調の最後「呼んでる道」の「ち」も「道」の単語本来の抑揚を生かして「み」と「ち」を同じ場所に置き、結果「ち」の音程がわずかに下がる。まるで次の短調を予告するかのように。
二番でも見事なまでに同じ構造で歌っている。「白い朝」のところは「さ」のピッチが低い。でも考えてみたら「朝」の発音は「あ」の方が高いのだから、宮本浩次はあくまでも言葉のイントネーションどおりに歌っているだけだ。だからこそ、朝もやのかかった白壁の街並、白い朝の風景が鮮やかに浮かんでくるのではないだろうか。
他にも「祈りの声」の「声」だけ息をまぜることで、白い朝の空に立ちのぼり消えてゆく祈りを表現するとか、「通りすがり」の刹那そのままのようなファルセットとか、宮本浩次の表現力が余すところなく発揮された素晴らしい一曲だと思う。
3/「化粧」について:
この曲は衝撃的とか凄みとかいう形容が常についてまわると思うのに、素敵とかかわいいと断言してはばからないのは宮本浩次だけではないだろうか。その感性のしなやかさに救われる思いがする。
実際、宮本浩次が歌う「化粧」は本当にかわいい。なんでこんないじらしい声が出るんだ?小林武史のピアノがとても男性的な弾き方なのも、宮本浩次のおんな声を引き立てる。
夜道を独りで帰りながら「歌う」のではなく、つぶやくように息を混ぜながら自分に言い聞かせる独り言。その息に子音を乗せながら宮本浩次は情景を描き出す。
「誰かと 二人で 読むのは やめてよ」の「読む」。半母音Yのかすかな重みに、手紙の束を読む時間の流れが織りこまれているように感じる。
「放り出された昔」のHは本当に放物線を描いて手紙が返されたみたいな息づかいがする。
何度も繰り返される「バカだね」のBもKも一つ一つ違うように表現し、「愛してほしい」のHとか、「心でとまれ」のKもTも必死に涙をこらえようとする女の内面を描き出す。
極めつけはそんなおんな声が一瞬で消える、たった一行の男の台詞「こんなことなら あいつを捨てなきゃよかった」だ。ことごとく子音を立てることによって、捨てた男の骨格が鮮やかに立ち上がるところがすごい。骨っぽくてかっこよくて、それでいて非情な男がみえる。
そしてもう一つ見事な表現だなと思うのが「バカのくせに」と「愛してもらえるつもりでいたなんて」の間にはさまれる「あ」。
この叫びのような「あ」は素人が歌うと後ろ向きに開いてしまって怨念がこもった怖い歌になってしまいがちだが、宮本浩次は「に」から「あ」にかけてこれでもかと声を前に開いて息を流す。宮本浩次の疾走する母音「あ」の真骨頂だ。
だからどこまでもひたすらにピュアな叫びがほとばしり「愛してもらえるつもりでいたなんて」につながる。いじらしい女歌になる。
この歌唱は中島みゆきの「化粧」を超えているのではないか、と私は思う。
4/「First Love」について:
この曲を最初聴いたとき、機材のテクニカルアクシデントかと耳を疑った。
他の曲ではしょっぱなからものすごくきれいにクリアな発音で歌詞を聴かせてくれる宮本浩次が、なぜかモゴモゴとこもった声で1連目を始める。「最後のキスは~ニガくてせつない香り」まで、骨導音が多めで何を言っているのかはっきりしない。
2連目の「明日の今頃には」を過ぎたあたりから、少しずつ気導音が骨導音にかぶさるようになり、宮本浩次のクリアな声が外側に出てきたのが聴こえてくる。多分、唇とマイクの距離を少しずつ離していってるのではないかと思う。
それと、発音するための舌の位置が喉の奥から歯のごく近くまで移動していっている、そのなめらかな移行が見事だ。
1連目は声が鳴っている場所でしゃべっているのが、2連目では声が鳴っている場所と発音している場所が離れていく。
最初の1連目の声は、まるで最後の一夜を明かしたあとの枕元で、耳元でつぶやかれている、ささやかれているようなインティマシーを感じる。2連目に入ると宮本浩次が立ち上がってどんどん離れていってしまうかのようだ。そして最後には「誰を想ってるんだろう」の「ろう」だけファルセットになって、本当にはてしなく遠くに行ってしまう。
それだけでも十分に泣きを誘う歌い方だと思うが、宮本浩次は「いつか誰かとまた恋に落ちても」とか「いつもあなただけの場所があるから」をごくごく気づかれないように(はっきり音程が下がってるとは思われない程度にだけ)、ちょっと軟口蓋を下げてピッチを下げ気味に歌う。だから聴いてる方も耳のピッチが下がって悲しくなって泣かされる。
歌詞の内容と相まって、この効果はすごい。毎回号泣してしまう。
そうなのだ。宮本浩次の声は「いつもあなただけの場所がある」。
5/「ジョニィへの伝言」について:
この曲を歌う宮本浩次は途方もなくブレスが深くて長い。何なら次の行の途中までノンブレスで行ってしまう。ぎりぎりまで息を吐ききって、次のフレーズが始まる直前に息継ぎする、その瞬間がたまらない。聴いているうちに宮本浩次と同じ深い呼吸をしていることに気がつき、心地よさに包まれる。
それが可能になるのはやはり、フレージングの処理が上手だからだと思う。
語尾をよく聴いてみよう。
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ジョニィ「が」来たな「ら」 伝えて「よ」
二時間待ってた「と」
出て行ったよ「と」
話して「よ」
友だちな「ら」
そこのとこ「ろ」うまく伝え「て」(以下同様)
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どの箇所も、投げ出さないでフレーズを丁寧におさめる。落とさない、ずり上がらない。旋律もリズムも、結構揺れる難曲なのにどこまでも心地よく安心して乗っていられる。
そしてこの曲がアルバムの中で特別な輝きを放っているのは、歌唱テクニックのなせるわざだけではない。阿久悠の歌詞に新たな解釈をほどこしたところだ。
「もとの踊り子でまた稼げるわ」の一節に、もしかしたら踊り子じゃないのかもしれない、でも踊り子じゃない人が「もとの踊り子で」と言ったらかっこいいんじゃないか、という突飛な発想をするのだ。(NHK BSプレミアム「The Covers」2020年10月11日放送での発言)
後々のインタビューやラジオで彼が言っていることを総合していくと、私達それぞれが誰しも抱えている存在の孤独みたいなものを"踊り子"という比喩でとらえているようだ。
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愛に敗れ「気がつけばさびしげな町ね」と言い、ひとりで去っていく踊り子も、幼稚園児の絵も、人間が抱える孤独を肯定しているんですよ。それだけじゃなく、学生、主婦、会社員、男性、女性……もちろん私も、生きている人はみんな踊り子なんじゃないかと。
(小学館「Domani」Webインタビュー 2020年11月19日付)
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"踊り子"という記号。
この解釈はなかなかに文学的な感性が感じられ宮本浩次ならではだと思うが、それによってこの曲はモデルとなった一人の格好良くて素敵な女性の原型を超えて、普遍的な広がりを持つ。宮本浩次の歌に、聴くひとりひとりの物語が多層的に重なり、「わたしはわたしの道を行く」という最後のメッセージが生きてくるのではないだろうか。
6/ 結びにかえて:
私達が宮本浩次の女歌に泣かされるのは、それぞれの曲に描かれている孤独、よく見るととんでもなく深く恐ろしい孤独を宮本浩次がとらえているからだ。「化粧」や「喝采」「二人でお酒を」のような歌に限らず、「あなた」だって「赤いスイートピー」だって「ロマンス」だって、すさまじく恐ろしい歌だと私は感じる。
人間の存在自体の孤独の深さというか、誰でも持っている闇の部分に、甘やかでありながら酸味も苦味もある高周波の倍音をもった声がさんさんと降り注ぐ。宮本浩次の声を浴びるように聴くのだ。だから泣かされる。浄化される。前に進む力をもらえる。
話は飛ぶ。私の好きな歌にヘンリー・パーセルの「O Solitude」という曲がある。
"O Solitude, my sweetest choice !"
という歌詞で始まる曲だ。
2020年、私達の孤独は、全く外的な要因で突然押しつけられたかのようにして始まった。皆がそれぞれ無理矢理に引きこもらざるを得ない状況、実際にレコーディングできるようになるかも分からない、成果が出せるか分からない中で、ただただ好きな歌、女歌の孤独と向き合う。自分の孤独と向き合い、稽古をする。
そうして外側から押しつけられた孤独を宮本浩次がmy sweetest choiceとして自ら選びとった結果として、カバーアルバム「ROMANCE」が生み出されたのだろうと思う。
だから、宮本浩次にはパーセルの孤独やダウランドのひそやかな愛も歌ってほしいし、シューベルトの端正なロマンやシューマンの狂気の美しさも歌ってほしい。そしてあの美しい日本語の発音でもっともっと宮本浩次の歌を作ってほしい。それがクラシック音楽で育ち宮本浩次ファンになった私の、切なる願い、熱烈なラブコールである。