ミュージカルが大好きなんです(5)〜劇団四季 ジーザスクライスト=スーパースター(エルサレムver)
好きだった観劇が、心の底から楽しめない日々が続いていました。当然チケット争奪戦に参加する気力もなかったのです。
ただ、今回は大好きなALW作品。私が好きな役者さんもご出演なさる可能性もあると予感した私。私の観劇予定日直前には、私の劇団四季初観劇(2006年『異国の丘』)で主役を演じられた御方の訃報。当然ながら、シモ様のヘロデ王にも度肝を抜かれた1人です。
いろんな思いが交錯しながら、これで私が劇場に足を運ぶのは最後にしよう。何度も聞いた言い訳をしながら劇場に向かいました。
私は広島2公演、両サイドから拝見しました。
広島公演ご出演キャスト
中高キリスト教教育6年、世界史オタクでもあった私はこの作品は得意分野。そこへ、政治クラスタと精神医療関係の知識をなまかじりしていた年月を加えてこの作品に挑んで書いた観劇の思い出200字数コメント。家族の誰に読ませても難解すぎてわからないと反応が返ってきたので、文字数制限に書ききれなかったところをnoteに書いてみます。所詮独りよがりな感想文、お目汚しに失礼します。
劇団四季公式HPより200字コメント
句読点こみでピッタリ200字の感想文を投稿を終えるまでが観劇としている私が200字に込めた一人語りを始めます。
【ネタバレ含む】
オープニングのシーン、よく見てましたら、ジーザスが舞台に姿を現すまで、群集は地を這って蠢いています。ジーザスが現れるや、そのカリスマ性に導かれた群集たちの動きが一変します。ジーザスを賛美する表現は指先、腕、上半身、そして全身を使ってエネルギッシュ。統率のとれた動きになればなるほど、熱狂の裏にある狂気を感じます。
私があえて2000年の“時空を超えて”熱狂の危うさに言及したのには、少なくとも次の①、②の背景があります。
①熱狂という群集心理はややもすれば間違った方向に突き進むことも歴史が証明しています。これは日本史研究の権威、故人・半藤一利氏の御著書を読んで学んだこと。
②奇しくもアメリカ大統領選挙にむけての民主党大会の様子をYouTubeで最近見ていた私。ガザ、パレスチナの人々の苦しみをヨソに盛り上がる会場。ハリス・カマラの政治的手腕への懸念も党内に少なからずあること承知の上でバラク・オバマの応援演説が巻き起こす熱狂に恐怖心を抱きました。
群集が求めているものは今この現世で味わっている刹那的な苦しみからの救い。自分さえ救われるならば、ジーザスに縋ってみようというエゴイズムも感じます。
ジーザスが説く救いは神の国に迎い入れられてからの“永遠の命”を意味します。
祈りの場である神殿で商売を始めた群集をジーザスが蹴散らすシーン、そんな違いをまざまざと描いているようにも思います。
ユダさえも、ジーザスに現世でうまく世渡りするほうが皆んなのため、そしてユダ自身のためだと願っているようにみえます。ユダとしては、こんなに師の身を按じてやっているのに、どうしてジーザスは自分の言う通りにしないのかと苛立ち、不安に心を支配され始めます。人を思いどおりに動かしたいという“他者操作”の欲望、そして己の“承認欲求”が満たされないことで受けた心のダメージを無かったことにするために、ユダは本心とは裏腹に“裏切り”という行為にでるのです。これはある種の心の防衛本能。それが間違いであったことに気づくや、ユダは後悔に苛まれ、破滅的な最期を迎えます。
私も「あんたなんか大っきらい、でも一人にしないで“I hate you, but don't leave me.”」という精神気質があるのでユダに共感します。
人間とは得てして目の前のものしか見ていない、考えていない。それだけで日々精一杯。
群集も、ユダも、私たちの中にあると思っています。
最期の1週間。人の子として生まれたジーザスに課された試練の大きさ、待ち構えている運命は群集やユダに見えている景色とは一線を画しています。
だからこそ「自分で治せ!“Heal yourselves! ”“Leave me alone”」とジーザス自身も彼らと距離を置こうとするのかと。
ジーザスが対話を絶えず試みていたのが、姿見えざる神の国の主、父なる神。「ゲッセマネの園」のナンバーにはジーザスが生身の人間として死の恐怖に慄きながらも、己の運命を受け入れる壮大なストーリー性が裏打ちされています。これを歌い上げるプレッシャーたるやいかほどかと思います。
古くからたくさんの役者さんたちがバトンを繋いできたこの作品。今後も大切にしていただきたいと1人のファンとして切に願います。