ルネサンス肖像画でたどるパールの旅
ART
pearlを通してARTを語るシリーズ、今回はルネサンスからの旅です。
ふと目にした肖像画、すてきな衣装とジュエリー。どんな女性なのだろうと思ったところからの旅。
【公爵夫人エレオノーラ・ディ・トレドの肖像】1545年
アーニョロ・ブロンズィーノ作
イタリア・フィレンツェの画家(1503~1572)
ウフィツィ美術館蔵
●スペイン王国のはじまり
16世紀、1534年、一人の美しい14歳の少女は生まれ育ったスペインから、
父親のいるイタリアのナポリへ旅立つ事を楽しみにしていました。
少女の名は、エレオノーラ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・オソーリオ。
父のアルバ家、ペドロ・アルヴァレス・デ・トレドはスペインがまだ内戦でいくつかの国に分かれていた、カスティーリャ王国の中の貴族の家柄の出でした。
スペインは長い内戦の末、カスティーリャ王国とアラゴン王国とで、イスラム教国からカトリックのキリスト教国へと統一できたのは、エレオノーラの生まれた時より30年ほど前の1492年、
レコンキスタ(統一)と新大陸発見で湧きたっていたのはついこの間のこと。
スペイン統一の際の女王イサベル1世の孫のスペイン王のカルロス1世は、同時に神聖ローマ皇帝カール五世も兼ねていて、
他に20以上もある肩書きにはナポリ王の称号もあるけれど直接統治ができないゆえに、エレオノーラの父親が副王として任に就いたのでした。
●本日の主役、エレオノーラの縁談
エレオノーラの育ったのは、
スペインの西部、ポルトガルの近くのサラマンカ県、アルバ・デ・トルメスは葡萄農園、山や川のあるのどかな所。
中心地には13世紀創立の大学があり、エレオノーラは極めて裕福な古い貴族アルバ家の邸宅で幼少期を過ごしました。
敬虔なカトリック信者の家族に囲まれて、豪華で贅沢な暮らしをしていたとされます。
父親は先にイタリアに副王として赴任し、2年遅れて14歳に母親や兄弟たちと移り住むこととなり、さぁ、いよいよナポリでの生活が始まりました。
海と青い空と光降りそそぐ国ナポリの地でエレオノーラはのびのびと活発で十分に美しく聡明な女性に成長していきます。
そんなエレオノーラが17歳の頃に縁談の話がのぼりました。
お相手は、フィレンツェの商人から身を起こし銀行家として財を成したメディチ家のコジモ1世(コジモ・デ・メディチ)。
新興貴族のメディチ家にとってスペインの王家と繋がる縁談は願ったり叶ったり。
この婚姻はスペイン国王カルロス1世の命によるもので、引き続き北部イタリア、フィレンツェの君主のメディチ家と 同盟することで、フランスに対抗するという政略結婚でした。
●コジモ1世
コジモ1世が2万ドゥカート(金70kgに当たる 金貨・・・日本円で今の金相場で約3億8千万円)という高額の結納金と引き換えに得るエレオノーラとの結婚により、メディチ家は神聖ローマ帝国とスペイン王国との強固な関係を築きカスティリャ家の貴族の血をメディチ家に取り込んだ形になりました。
長身の二十歳のコジモ・デ・メディチは、有能で判断力に長け、まじめで強い意思を持ち、そしてあまり人を信用しないという気難しい一面もありました。
ですが、美しいエレオノーラにコジモは好印象をもち、1539年二人は盛大で壮麗な結婚式を挙げることになります。
政治的結婚でしたが、結果的に二人はとても仲がよく円満な家庭でした。
エレオノーラも愛情深く従順につくしていたそうで、二人の間には11人の子どもが誕生しました。
●肖像画とパール
結婚後のエレオノーラを肖像画とともに考えていきたいと思います。
一枚の肖像画から事実を知ると想像が膨らみます。
ジョヴァンニとエレオノーラ↓
私は真珠の産地を調べるうちに、真珠が世界史の大きな流れに組込まれていることにとても興味がわき、真珠の視点で世界史を眺めています。
(日本の歴史を真珠でたどる、等)
エレオノーラの真珠は彼女の静かな美しさを引き立てるのに十分なほど魅力的です。
23歳の若さでこの品格と堂々とした雰囲気はどのような人物かと背景を知りたく調べるうちに、スペイン王国と深く関係があり、しかもスペインは大航海時代に突入し、新大陸の黄金や真珠等により国は潤いまさに文字通り黄金時代の真っ只中です。
今回のパールの旅は、彼女にもたらされた真珠が、もしかしたら南米ベネズエラのものを使用しているのではないかと想像を巡らすところから始まりました。
●絵画としての魅力は画家のブロンズィーノの技
夫のコジモ1世は、彼女を大いに気に入っていたようで、そのため、その美しい容姿を画布に永遠に留め、新妻の高貴な血筋を宣伝するために、当代最も腕の立つ画家に肖像画を描かせました。
これは画家ブロンズィーノが数点制作したエレオノーラの肖像画の中で初期の作品です。
暗い背景から浮かび上がる、一点を見つめる澄んだ瞳に惹きつけられ、肌の柔らかさも感じます。
ブロンズィーノはコジモ1世の宮廷画家として多くの肖像画を残しました。知的で洗練された画風が特徴です。
クールで静かな描き方、マニエリストの代表選手です。
●衣装とジュエリーの魅力
大公夫人は、そのもっとも美しい衣裳をまとって描かれています。
この衣裳はおそらく彼女が婚礼の日に着たもので、ザクロのモチーフの精巧な錦織のベルベット製の衣装はフィレンツェの絹織物のすばらしさを宣伝するのにも最適で圧倒的な美しさを感じます。
彼女の墓廟からこの衣装の断片が発見されています。
襟ぐりに真珠の付けられた金糸入りのダマスコ織りの白地の衣裳は、宝石のあしらわれた金の鎖で飾り立てられ、ウエストの宝石のあしらわれた鎖のベルトは金細工職人、ベンヴュタード・チェリーニ作の可能性も。そしてそのベルトの先は真珠の房になっています。
胸を飾る長めの真珠のネックレスは、10ミリほどの大きさに感じます。
天然真珠としてはとても大きめ。もしかしたら白蝶貝の南洋真珠でしょうか。
古代から天然真珠は採れ高が少ないのに需要が多く、といったとても貴重なものでした。
白くぼんやり虹色のように輝く真珠は清楚で柔らかでその光は肌をも美しく魅せます。
ルネサンス以降、真珠はヨーロッパの女性を虜にしてきました。
着飾った肖像画の女性の大事なアイテムの真珠ですが、エレオノーラも着用している真珠はどこで採れたものでしょうか。
●スペインの略奪によるヨーロッパへの真珠
当時のヨーロッパの天然真珠は主に、アラビア湾のもの、インド産のもの、そしてもう一つは南米のベネズエラ産のものです
1492年にコロンブスがスペインのイザベル女王の支援によって新大陸を発見しました。
1493年のコロンブス2回目の航海でも真珠は見つからず、1498年の3回目の航海でベネズエラに到達し、かなりの量のあこや真珠を発見します。
どんなにコロンブスが喜んだかは想像に難くないですね。
ベネズエラで採れた真珠は相当な量だったのですが国王夫妻にはわずかなものとして報告するだけでしたが、航海士たちにはそこにあこや真珠が大量にあることを感じ取って次々にベネズエラに向かって遠征するのでした。
ベネズエラの社会ではまさかスペイン人たちが略奪にきているとは思わず、逆に親切に対応をしていたのも仇となり、あれよあれよという間にスペイン人の差し出す安物と真珠や黄金が物物交換にされてしまうのでした。
1502年頃には遠征隊によって75キロの真珠を得たという記録があります。
1513年には、パナマの太平洋側で大型の真珠貝が見つかり、大粒の南洋真珠も採れるようになったのでした。
このあと、スペインは新大陸の富と植民地を独占した結果未曾有の繁栄期が訪れ、1588年にイギリスに破れるまで「太陽の沈まぬ国」となったのですよね。
この肖像画の描かれた時は本当にスペインには良い時代でした。
たくさんの数の真珠がヨーロッパに流れ込みました。同時にポルトガルによるインドの真珠も略奪されていた時期と重なります。
●エレオノーラの真珠は?
さて、エレオノーラが生まれたのが1522年です。
エレオノーラはスペイン王家につながる家系であり、父はナポリの副王。
状況的に彼女の着けているネックレスやその他の小さな真珠類はベネズエラ産ではないだろうかと考えます。
また、パナマの大粒の南洋真珠は黒蝶貝でしたが黒以外にグレーや白色も採れたようなので、肖像画の大粒の真珠はパナマ産かもしれません。
この肖像画が描かれたのは1545年で23歳の年、殆どのジュエリーが以下の通りの真珠製です。
・ つゆ型の真珠の大きなイヤリング
・肩から胸元の錦糸と真珠の織物
・短い大粒真珠のネックレスに宝石とつゆ型真珠 のペンダント
・長めの大粒真珠のネックレス
・宝石入りのウエストのベルトにパールのタッセル
●その後のエレオノーラとコジモ1世
ところで、この後のエレオノーラは40歳でなくなるまで子宝に恵まれたのは前述のとおり。メディチ家に安泰をもたらしました。
最初は “ スペイン人 ” として人気が薄かったエレオノーラも、次第に影響力を持ちます。
孤独で人をあまり信用しないコジモですが、
聡明な彼女に寄せる信頼は大変なもので、摂政として完全に国を委任されました。
コジモに相当の影響力があったと言われています。
為政者は孤独です。でも奥さまを信頼できて政治の相談ができるのは幸せ。
政治の口出しする妻だと国が傾くと言われますが、そうでなかったのはコジモの存在感と、エレオノーラの政治能力が有無を言わさぬものだったのでしょう。
エレオノーラは敬虔なカトリック教徒で、いくつもの教会を設立しました。
農業と商業にも興味があり、メディチ家の広大な領土を有効活用して収入を増やしました。
メディチ家に相応しく芸術にも理解があり、夫婦ともに著名な画家たちのパトロンにもなっていました。
コジモは体調のすぐれないエレオノーラのからだを気遣って、パラッツォ・ピッティを購入し宮殿を大拡張した上で拠点を移しています。
近くに流れるアルノ川は故郷スペイン、サラマンカのトルメス川を思い出すこともあったのではないかなと想像します。
内装はエレオノーラの好みに合わせで豪華そのもの。
エレオノーラは豪華な衣装や宝石が好きで常に10人ほどの縫子を引きつれて自分のドレスを縫わせていたそうです。
でも、妃はみんなそういうものですよね。
ヴェネチアの南にあるマントバ国王の妻のイザベラ・デステもファッションリーダーでしたもの。
(この方のエピソードが凄すぎ)
ドレスを一枚縫い上げるに何日ぐらいかかるものなのでしょう?
ミシンもないし、刺繍したり宝石を縫い付けたりしたらすごくかかりそうですね。
お針子さんがたくさんいるのもうなづけます。
でも、それはメディチ家として当たり前で、今をときめく大公妃として相応しい奥方だったと思います。
●エレオノーラの子どもたち
しかし、輝きが強ければその暗闇も強く、1562年、四番目の19歳のジョヴァンニと7番目の16歳のガルツィアが相次いで亡くなりました。
言い伝えによれば、喧嘩の末ジョヴァンニがガルツィアを殺してしまいコジモが「誤って自分で剣を刺してしまった」と公表したことになっております。
後々メディチ家は、ふたりはマラリアで亡くなったと主張しました。
エレオノーラは息子たちの死のあと取り乱し、結核を悪化させて数週間後に亡くなりました。
長女マリアも美しく聡明な女性でしたが17歳で亡くなったり次女イザベッラ(3番目)も母より先に亡くなります。
三女ルクレツィア(5番目)は16歳で失い、お子さんには悲しいことが続きました。
ブロンズィーノの絵画に残されているお二人、とても豪華で美しい。
マリア(ブロンズィーノ)
ルクレツィア(ブロンズィーノ)
コジモはかなり性格にムラがある人で、急に癇癪をおこしたり気分屋ゆえに周囲はとても大変だったようですが、(女傑で有名なミラノ、カテリーナ・スフォルツアのお孫さんなので、うなづけます)
エレオノーラだけにはずっと愛情を示していたそうで、彼女の死に大打撃を受けて、その後の人生はとても荒れて最晩年は半身不随となってしまいます。
いずれにしても、エレオノーラあってこそ、いろいろあったメディチ家で、コジモはフィレンツェの景観等、トスカーナ大公として再興をなし得たのだと思います。
●最後に
女性の美しさばかりがエピソードになりがちな中世において、名君を支える頼もしい女性がいたというのは喜ばしいことです。
ふと見かけた肖像画からこのようにたくましい女性を発見できてとても嬉しい限りです。
真珠の美しさは女性を引き立てます。その逆もしかり。
力のある女性がたおやかにジュエリーや真珠を着けて颯爽と時代をリードして行く姿はいつの時代も変わらず、魅力的に感じます。
先程の、カテリーナ・スフォルツアもイザベラ・デステもそんな女性たちです。
現代もサッチャーさんや、ケネディ夫人の真珠のネックレス等も印象的でした。
エレオノーラの愛した真珠の一部は彼女と共に一緒に永遠の眠りについています。