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#237 俳句の「季語」で磨かれる力とは?

五七五七七といえば、
言わずと知れた短歌の形式です。

ここから生まれた、
連歌という形式もあります。

五七五をAさんが詠んだら、
七七をBさんが詠み、
また別のCさんが五七五を詠む・・・
という形で歌を続ける形式です。

はじめの五七五を発句と言います。

発句には「季語」と呼ばれる、
季節を表す言葉を組み込むのがルールでした。

これは、複数人で歌を読む連歌の形式上、
どの季節の歌を読んでいくのか、
詠み手同士で共通認識が必要だったからです。

ところで、この発句の部分だけを取り出し、
大成させたのが松尾芭蕉であり、
のちに俳句と呼ばれるようになります。

しかし、もはや複数人で詠み合う形式ではないので、
季語が入っていなくても良いように思います。

季語が残っている理由は、
2つあると考えます。

一つ目の理由は、
歌の受け取り手に、
限られた言葉の中で、
なるべく多くの情報を与えるためです。

例えば「風の中を走る」という
フレーズがあったとします。

これを「春風を走る」と変えれば、
やんわりした春の風の中を、
ゆっくりとランニングしている姿が思い浮かびます。

「薫風を走る」とすれば、
5月の爽やかな風の中を、
軽快に走り抜ける姿が思い浮かびます。

「黒南風を走る」とすれば、
梅雨時のじっとりと汗ばむ季節に、
懸命に走る姿が思い浮かびます。

季語を用いることで、
詠み手の伝えたい情景が、
受け取り手に伝わりやすくなるのです。

そして二つ目の理由は、
詠み手が季節に敏感になるということです。

我々は日々、何気なく生活を送りがちです。

しかし、何も変わらない日常のように見えても、
一刻一刻、季節は移ろいます。

風の変化から、季節の移ろいを体感する。
さりげない変化を、細やかに観察する。

そんな機会を提供してくれるのが、
季語の存在なのです。

俳句は「観察力を磨く」という意味でも、
日本の誇る大切な文化なのです。

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