歴史考察 #92『京都の大仏はミロのヴィーナスだった?!』
豊臣時代から昭和後期までの延べ300年以上、京都には奈良よりも大きな大仏像があったことをご存知でしょうか?
しかしそれは4度の災害に遭遇し、その都度再建するものの結局はなくなってしまったんですよね。
①初代:1595年 - 1596年(約1年間):慶長伏見地震で損壊
②2代目:1612年 - 1662年(約50年間):寛文近江・若狭地震で損壊?
③3代目:1667年 - 1798年(約131年間):落雷で焼失
④4代目:1843年 - 1973年(約130年間) :失火で焼失
そんな京都の大仏はどのようなお姿をされていたのでしょうか?
京都の大仏は、京都市にある『方広寺』にあったそうです。
現代においては「京都大仏前郵便局」や「大仏前交番」などの
名称などから、かつて大仏像が鎮座されていたことが感じられます。
初代の大仏像は文禄4年(1595年)に完成。
文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏(14.7m) を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていたようです。
そして、当時の大仏像は、オランダ人牧師モンタヌス(1625-1683)の主著「日本誌」に描かれているのですが、それは私たちが思い描く逞しい男性の大仏ではなく、乳房のある柔和な女性の大仏像が描かれていたのです!!
しかしその大仏像はどこかで見たことがあるんですよね...
胸をあらわにし、腰に薄手の布を巻いたお姿...
そう!『ミロのヴィーナス』です!!
似てると思いませんか?
そして『ミロのヴィーナス』はギリシア神話における美の女神アプロディーテーの像と考えられています。
『アプロディーテ』は、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱。
美において誇り高く、パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれ、また、戦の女神としての側面も持っています。
元来は、古代オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられています。
大きな像にして祀るにはぴったりの神ですよね☆彡
そのうえモンタヌスの大仏像は、洋風の建築物の中に鎮座されているのですが、『都会節用百家通』に掲載された方広寺大仏殿内部の図でも洋風の建築物なのです!!
ちなみに、大仏をつくった秀吉は、ベッドで寝て靴を履く洋風の生活をしていたり、側室たちを「マリア」「カテリーナ」と呼んでいた逸話が残っていることや、世界最古の巨石文明が生まれたマルタ島で発見されたのは女神の石造だったり、それによく似た『縄文ビーナス』が日本でも見つかっていることなどを踏まえましても、秀吉が京都の大仏を洋風の女性像にしたとしても不思議ではありませんよね。
しかしそれでは日本のイメージ的に合わないから何度も壊された...⁈
いずれにしましても京都の大仏が無くなってしまったのはとても残念ですよね。
いつか当時の大仏像が京都に復活できたらいいですね☆彡