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歴史考察 #168『明治は「明(みん)」が治める?!』

こんにちは、véritéです。
先日孫文記念館(移情閣)を訪れました。

八角形の中国式楼閣「移情閣」は、1915年築の現存する日本最古のコンクリートブロック造建造物で、国の重要文化財に指定されています。

こちらは、孫文を顕彰する日本で唯一の博物館として1984年に開設。
それまで孫文にはそれほど興味がありませんでしたが、そこでとても興味深い案件に遭遇しました!

▶孫文(1866-1925)
中華民国の政治家・革命家・思想家・政治運動家・医師。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。中華民国では中国最初の共和制の創始者として「中国革命の父」と呼ばれる。

孫文の説明の中で目に留まった一文。
「長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、『独立したい』『辮髪(べんぱつ)もやめたい』と言っていた。」

※「辮髪」とは、主に東アジア(北方民族)の男性が、頭髪の一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三つ編みにし、後ろに垂らした髪型。

このことから、孫文が「漢民族」であること、そしてあの不思議な髪型は「辮髪(べんぱつ)」と称し「満州族」の髪型であることを知りました。

そんな「満州族」は、「女真(じょしん)」を祖先とする「ツングース系民族」の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥とあり、「清」の時代(1644-1912)には「満州族」が国を治め、「辮髪」が強要され、「星神(北斗七星)」に対する信仰が最も普遍的なものであったと。

「星神信仰」といえば、日本各地に点在する「妙見信仰」が思い出されますが、ひょっとしてそれらのルーツは「清」にあった?!

また、あの不思議な髪型「辮髪」は、ひょっとして、日本の「ちょんまげ」や、子連れ狼の大五郎の髪型のルーツだった?!

孫文は1895年、広東省広州で清朝政府に反対する最初の武装蜂起を企てたが失敗、香港へ逃れたが、清朝政府は孫文に花紅銀1000元という多額の賞金を懸けてその行方を追及。

このため孫文は日本に亡命。 横浜で華僑らを組織して「興中会」の分会をつくるなど、日本で活動。

当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助(1869-1965)は、別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招き、完成したばかりの「蘭の間」を提供し、異国で過ごす友人を励まし、労ったそうですが、この蘭の間の壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていたとか... (孫文の抜け穴)

特筆すべきは、漢民族である孫文が「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っていることです。

ひょっとして明治とは「明(みん)=漢民族」が治める時代だった?!

余談ですが、孫文記念館に展示されていたこちらの集合写真でキリリとした現代風なセンターパーツの方は、載天仇(=戴季陶) という人物で、なんと蔣介石の次男とされた蔣緯国の実父なんだとか。

いずれにしましても歴史的建築物を訪れるのは興味深いですね。新しい関心を呼び起こします✨

そして、ひょっとしたら、「蘭の間」以外にも「抜け穴」のある歴史的建造物があるのではないかとワクワクする今日この頃です。

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