原点回帰のススメ
賑やかなセミの声とともに思い出されるのは、福島の祖母宅での夏休みです。
祖母宅は山の中の古民家でした。
古民家の庭にはポンプ式の井戸があり、ハンドルを上下すると、じゃぶじゃぶと冷水が溢れ出て、水を張った桶には、まんまるなスイカがぷかぷかと気持ちよさそうに浮かんでいました。
風呂場は外にありました。
風呂釜は石をくりぬいた形で、燃料は薪です。
その蒔をくべるのは私たち孫の仕事。
パチパチと燃え盛る火の前で、竹の吹き矢から顔を真っ赤にして息を吹きかけていました。
風呂場の横には壁を隔てて厠が3つありました。
祖父や叔父はそこから糞尿を桶に汲み入れ、天秤棒を用いてちゃっぷんちゃっぷんと肥溜めに運んでいました。
風呂場の向かいには、蚕小屋がありました。
蚕小屋には桑の葉を敷き詰めた竹製の丸カゴがいくつも並べられ、その上には真っ白な「蚕さま」がひたすら桑の葉を食していたことを覚えています。
母屋の玄関は常時開けっ放しでした。
玄関と台所は土間でつながり、台所の中央には年季の入ったかまどが置かれていました。
玄関を入るとすぐに居間がありました。
居間の中央には囲炉裏、庭側には障子戸、障子戸の外には縁側があり、日向ぼっこやうたた寝はもとより、おやつのとうもろこしをいただく場所でもありました。
縁側の内側には雨戸用のレールがありました。
雨戸閉めもまた私たち孫の役割でもありました。
戸袋から雨戸を1枚づつ引き出し、レールに乗せ、勢いよく雨戸を押し出すのですが、これが意外に楽しく、誰がやるかで喧嘩をするほど人気だったものです。
庭には一本の大木がありました。
夏になると太い枝に縄をかけ、ブランコが設置されました。
私は従妹とともに二人乗りをして勢いよく漕ぐと、90度くらいの高さまであがり、とてもスリリングだったものです。
そして私たちはその大木に登り、カブトムシやクワガタ、トンボを採ってはその数を競いあったものでした。
それから、庭の隅には鶏小屋がありました。
早朝にはコケコッコー!と勢いよく鳴き、そこで毎朝産み出される卵が食卓に並びました。
あるとき、料理を運んでくるよう母に言われた私は台所に向かいました。
台所の引き戸を開けると、私は惨憺たる光景に遭遇したのです。
祖父が鶏の首をはねた瞬間を目の当たりにしてしまったのです・・・
キャーーーーー!!!
私は見てはいけないものを見てしまったと思い、慌てて客間に戻りました。もう心臓はバクバクです。
それは幼い私にとってあまりにも衝撃的なシーンでした。
しばらくすると大皿に山ほど盛られた肉料理が運ばれ、私はここで初めて気づいたのです。
鶏は卵をいただくためだけに飼っているのではなく、食肉としていただく目的もあったということを・・・。
そうした様々な学びと遊びがあった祖母の古民家は、老朽化のもと、一般的な住宅へと建て替えられたことをきっかけに、井戸も石風呂も下肥も蚕さまも鶏小屋もすべて無くなったことで、幼心にも一抹の寂しさを覚えたものでした。
あれから半世紀ー
私は「里山の持続可能な暮らし」を体験するため、京都の京北町を訪れました。
京北町は、JR京都駅からバスで1時間半ほどの位置にある里山です。
「周山」というバス停で下車すると、そこには緑豊かな原風景が広がっていました。
訪れたのは一軒の古民家。
そこには土間の玄関があり、囲炉裏があり、かまどがあり、鶏小屋もありました。
すでに私の記憶の中でしか存在しない幼少期の祖母宅の風景。
それが今、半世紀の時を経て目の前にある現実に、郷愁の念を抱いたのは言うまでもありません。
そんな古民家のご自宅を案内してくださった方は、27代にわたり古民家を守り、先人の知恵と技を伝承し続けていらっしゃいました。
それが簡単なことではないことは、私の祖母宅における変化からもよくわかります。
また、そうした暮らしを都会からの移住者が引き継いでいることも知りました。
しかしそれは、半世紀前の暮らしをそのままコピーするのではなく、しっかりと地域の人々と繋がりながら、異文化交流や、コミュニティのデザインなど、上手にアップデートされていることも知りました。
閉塞感が漂う昨今、心身の解放とリフレッシュを兼ね、こうした古民家を訪れ、人々と触れ合い、「持続可能な暮らし」を体験しながら、これからの生き方について一考する時間を作ることは、とても大事だとしみじみと感じました。
みなさんもこの夏体験されてみてはいかがでしょうか。