歴史考察 #145『ルナパークは博覧会のリフォーム?!』
こんにちは、véritéです。
先日訪れた通天閣前のお店には、大阪ルナパークの写真が展示されていました。
そこで大阪ルナパークについて調べてみました。
大阪ルナパークは、1912年(明治45年)7月3日に開園し1923年(大正12年)まで営業された巨大な遊園地です。
ちなみにこの土地は、美しい洋館だらけだった第5回内国勧業博覧会(1903年/明治36年)が開催された場所。
なので、博覧会で使用された洋館を「リフォームして遊園地にした」とすると自然ですが、そのようには言われていません^^
そして大阪「ルナパーク」は、河浦謙一によって建設され所有されていました。
河浦謙一は、富山県から上京し慶應義塾で学んだ後、美術品貿易商である吉澤商舗(よしざわしょうほ)に勤務。
この吉澤商舗は、のちに貿易会社、日本最古の映画会社の一つである吉澤商店として映画史にその名を残し、同社社主・吉沢某の縁者である河浦謙一が経営を継承。
同社は以後、「活動巡業隊」を結成し、一種3分ほどのフィルムを10~15種持ち歩き、全国での巡回興行を開始。
1900年(明治33年)には、幻燈機とともに安価な国産映写機の製造販売を開始。
1900年(明治33年)の北清事変(義和団の乱)の際には、なんと、撮影技師の柴田常吉と深谷駒吉を現地に派遣し、1900年(明治33年)、「北清事変活動大写真」として神田・錦輝館で公開。
また、1901年(明治34年)には、スチル写真で構成した「北清事変写真帖」を編集発行。
1903年(明治36年)には、電気実験を見世物としていた浅草公園六区の「電気館」を、「日本初の活動写真常設上映館」として改装しオープン✨
1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、またもや撮影班を中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博したそうです。
また同社はこれを米国でも上映し、その際河浦は、遊園地やエジソン・ブラック・マライア撮影所を視察。
そして、1905年(明治38年)にはマレー半島で巡業。
実写映画は海外でも歓迎され、吉沢商会は日本で最も大きい映画会社となったそうです。
さらに、1910年(明治43年)には、浅草公園の「日本パノラマ館」の跡地に、娯楽施設「ルナパーク」をオープン!!
「ルナパーク」は、ニューヨークのコニーアイランドを模した遊園地で、写真館や物産店・飲食店、天文館、木馬館、南極旅行館、海底旅行館、自動機械館、電気発音館、天女館、植物温室、相撲活動館、「汽車活動館」などのほか、高さ15メートルの築山から大瀑布を落とすという派手なもので大盛況だったそうです✨
1910年(明治43年)には、現在のライオン(小林商店)創業者小林富次郎の葬儀の記録映画を受注し『小林富次郎葬儀』を製作。
1911年(明治44年)には、「ルナパーク株式会社」を設立し事業を法人化しますが、オープン後わずか半年後に火事によりルナパーク全体を焼失...😢
(この時代は火事や地震が多いですね~)
これにより河浦は二番目のルナパークを大阪新世界に建設する決断をしました。
新世界ルナパークのアトラクションには、絶叫マシーンをはじめ、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂、不思議館、展望塔、大衆演舞場、動物舎、瀑布渓流、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールなど遊園地以上の施設がてんこ盛り!!
しかし、1943年(昭和18年)、初代通天閣が火災により損傷し閉鎖したことや、材料を軍事利用するために日本政府によって解体されたそうです...😢
それにしましても、明治時代にすでに戦争の記録映画を作っていたことに驚きを隠せません!!
そしてその戦争のため(?)に、電気も満足にない時代に日本初の大規模なイルミネーションまであった美しい洋館を壊してしまったことは本当に残念です...😢
...というか、映画会社が遊園地を作ったのだから、ルナパークの動画があってもよさそうですが...
いずれにしましても実に勿体ないお話です...