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小学校で何故勉強が嫌いになったのか?でも、何故か今は大学教授!!

 人生の道標となった人物は数多いところ、絶対に忘れない方が4人いる。1人は同人誌である詰将棋パラダイスの編集主幹(と言っても1人でやりくり)であった故鶴田諸兄氏。あと2人はバカな僕に英語を教えてくれた中学のときの境先生(まだ存命と思うし、境先生については下で引用した雑文で少し書いた)と高校のときの故松永先生であるが、その3名についての思い出は別の機会とし、今回書いてみたいのは僕の命を救ってくれた脳神経内科・精神科医の竹原先生で、何故標題に関係があるのかは以下の論を読んでいただければ分かっていただけると思う。

 過日…
 ある日のこと、「そんな薬を子供に飲ませたら死ぬぞ」という電話越しでの主治医の大声が僕の耳にも入ってくる。しかし、その夜からはとんでもない量の薬が食後のデザートとして待っていた。

 小学校2年(昭和36年)のある初夏の土曜日。学校から帰ってパン屋に。早く食べたいと走る僕。しかし、名古屋の八事(やごと)という当時は信号のない交差点を渡ろうとしたときから僕の記憶は途切れる。目が覚めたのは翌日の何時だったろうか、病院のベッドで包帯がぐるぐる巻きで、左腕は動かない状態。
 小型トラックがぶつかり、飛ばされて、トラックが僕の上を通過。誰もが死んだと思ったそうだ(おまけに交番の前)。しかし車輪の間に倒れて、トラックが通過するという奇跡が起きて、現在の○○教授が存在することになった。そして、事故の後すぐに八事の交差点に信号が設置された。(この事故と信号の件は中日新聞にも載った)

 頭部裂傷21針、左の鎖骨他の左半身の骨折、背中に無数の傷。それでも良く助かったものだった。入院2カ月余、自宅療養1か月余。夏休みもなく、9月を迎えることに。

 さて、小学校の担任(名前をまだ覚えているが、それは伏せて、女性の年配の方とだけ)がすぐ見舞いに来たが、左半身にギプスをし、左手が不自由な僕を見るとお見舞いの言葉もなく「この際左利きを治しなさい」。

 これにはぐさりときた。僕の心は怒りで一杯。その時から勉強はしないぞと誓い、宿題はその後卒業まで担任が替わってもほぼ一切やらなかった。この件についてはあとで詳しく。

 毎日点滴や注射があったが、ある日脳内出血がないかを脊髄液を採取して調べる検査。どうも、朝から看護婦さんもかなりの数で物々しい様子。僕をうつ伏せで抑えると、麻酔の麻酔らしいところから始まり(効かない)、畳針のような針を背中に!その後も色々痛い目に遭ったが、これは意識がなくなるほどで、痛みの記憶も失せてしまった。何せ、CTもMRIもない頃。その次が、骨折の部分に金属が通してあって、その外側が二本外に出ているのであるが、それを抜く処置。手術台に縛り付けられ、麻酔も簡単なものなのであったが、ただ泣き叫ぶだけだった。

 退院後数年間は車が通る道を一人で渡ることができなかった。両親や友達に手を引いてもらって、目を瞑って渡っていた。これがいわゆるPTSDというのだろう。
 奇跡の生還(大袈裟か?)を経て、勉強はしないが、やんちゃな日常生活に戻ったと思ってから数カ月後。両親や担任がおかしなことに気付き始める。詳しく書くとこれだけで頁が相当必要なので簡単に。
 夜中に目を覚ましてさまよう。みんなが行こうとしている方向から外れる。椅子から転げるなどなど。そして、僕はそれを全て覚えていない。
 両親が、普段お世話になっている内科の主治医のところを訪ねる。すると、すぐにある精神科のところに行って脳波を取るようにとのこと。当時脳波を検査する機械はごく限られた大きな精神科のある病院にだけあり、紹介を受けた一宮(名古屋の自宅からはバスと名鉄電車とさらにバスを乗り継いで二時間くらいかかった)のある病院に。すると脳波を見た医師は診断書を書くと同時に入院かもしれませんねと言うではないか(多分、主治医もそれを見越して、その病院を紹介したらしい)。後に詳しい説明を知ったが、その時は両親だけが病状を知らされ、非常に固い表情で自宅に戻ると主治医のもとに。数日後、主治医から紹介された名古屋大学の脳神経内科の先生のところへ。その方が僕を救ってくれたフランス留学から帰ったばかりの竹原先生であった。
 さまざま検査の結果下された診断は「脳の損傷によるてんかんと神経障害(意識障害)」であった。数ミリの範囲だけを大きく撮るレントゲンで調べた結果、頭部裂傷の際にほんの〇・数ミリの頭蓋骨折があり(ひびみたいなもの)、それが見落とされて、自然に塞がるまで時間がかかり、そこから空気が入ってその部分の脳がかなり損傷していたことがわかった。その後病院の診察室ではなく大学の研究室に呼ばれ「大人なら治らない可能性が高く症状を抑えるだけになるけど、子供なら治るかもしれない」と目の前で言われ、さすがの僕も、脳波をとった精神科の病院の患者さん(入院病棟や隔離病棟もうかがい知れ、精神障害で正常ではないと思われる人がたくさんいた)のように入院するのかと恐怖心がわいたものだったが、さらに「ある意味君の体で実験するけど、治らずに今のままでいるよりは、この治療に賭けてみないか」というようなことを僕(もちろん両親にも)に言うではないか。ずっと後になって分かるのだが、治療に使った薬は承認前の治験薬だったり、子供に対する用量を遥かに超えていたりで、その処方箋を持って主治医のところに薬をもらいに行ったときの冒頭の電話の怒鳴り声になったわけである。
 以後、月に一度(学校を休んで)の脳波検査、その結果を持って竹原先生の研究室でのいろいろな運動検査と処方箋、主治医からの調剤という治療が中学三年になるまで約六年続くのであった。
 その間、運動は一切禁止。高いところ禁止(窓拭きなど)。おかげで今も泳げない。しかしながら小学校六年くらいからは症状は一切出なくなり、内緒で自転車に乗ったのを見られて、こっぴどく叱られたこともあった。いよいよ最後の診察の際には、先生から「君の脳波は正常過ぎて、かえって異常かもしれない」などと冗談も出るほどだった。

 さて、学校生活に話を戻すが、入院時の担任の一言が、どれだけ心に刺さったか?今では矯正しないのは常識であるが、当時は左利き(クラスにぼくしかいなかった)はできるだけ矯正しようとしていたが(とくに低学年では)、僕はそんなのはバカらしいし、めちゃくちゃ苦痛だし、ご飯食べたり、字を書くのに不便なので、何で直さないといけないのか、全く分からなかった。ちなみに、僕はお箸と鉛筆は左で、右は見様見真似はできるけど、ほとんどダメ。後日、将棋や麻雀は何故か右で駒を動かしたり、牌を自模ったりで(まあ左もできるが)、少しだけやったゴルフは右打ちだけど、野球は投げたり、打ったりはどちらもできて、特に投げるのは右のほうがコントロールが良かったりする。小学校高学年からある書道の時間(中学もあった)は最初はめちゃくちゃ下手くそで右で書いていたが、流石に先生も諦めて、左で書いてよいことになった。
 今、教室で教えていて、女学生なんかでも左利きが何人もいて、ある意味ほっとするが、当時は本当に少なくて、現在の研究では10%くらいはいるとされている左利きが、当時2クラスあった僕の学年で、僕1人だったということは、みんな矯正されてきたのかなあと、今になって思うのである。
 さて、その心無い(本人はわかっていないか、冗談で言ったかもしれないが)言葉のおかげで、僕の小学校での成績は酷いことになるのである。

 小学校6年まで(2~4年は毎年担任が変わり、5~6年は1人が続けて担当)の行状を簡単にまとめると。

 ― 夏休みと冬休みの宿題帳はもらったその日に捨てる(裏庭にゴミを燃やすところがあったので、そこで燃やす)。
 ― 普段の宿題も殆どやらない。ただし、5~6年のときペナルティが厳しかった漢字の書き取りの宿題だけは、仕方ないのでやっていた。ペナルティは、やってないとその漢字(多分5回ずつ綺麗に書き取りノートに書いてくる)が20個くらいあって、それを50回(100回かな?)ずつ書くまでは帰れないというものだった。これは遊び時間が少なくなるので、渋々やっていたが、このあたりは若干ご都合主義で、根性が足りなかったところ。
 ― 唯一やった夏休みの宿題は5年だったかと思うが、道路に興味があったので、全国の国道の経路や特徴を調べると言う自由研究(課題自由で自分で考える)をやって、ノートを提出した。これには、前の担任から申し送りがあったはずの担任が驚いていた。
 ― 5~6年の担任は結構厳しくて、若干体罰傾向もあり、宿題をやってなかったり、忘れ物をした場合は、教室の後ろに正座して授業を受けることになるのだが、僕の場合は、授業が始まる前に自主的に正座していた。また、当時給食はめちゃくちゃ不味く、残すと食べるまで帰れないなんて指導もしていて、脱脂粉乳が飲めないし、酸っぱいものがダメな僕は、調子が良い時は、鼻をつまんで一気に飲んだり食べたりして、無理やりお茶で流し込むか、本当にダメなときは(大量に飲んでいた薬が味覚に影響していた可能性は高い)職員室の端っこに残されて、先生と根競べ(先生が諦めて帰れと言うまで)だった!おりこうさんの女の子は給食をきちんと食べていたが、あるとき、みんな我慢して食べているんだよって、聞いたことがあって、そうだよなあと思ったもんだ。

☆これには思い出があって、5年の途中まで隣に座っていたM・Kという可愛い女の子が、やはりどうしても脱脂粉乳がダメで、その子がいたときは、先生もある程度目こぼし(本当に少しだけ注いで、そのまま残してもよい)してくれていたが、その子が1学期終わりに転校してから、急に僕に対する風当たりが強くなったので、がっかりした。今では梅干しだけは本当に食べられないが、他はほぼ大丈夫だけど、乳製品に若干苦手なものがある。(チーズはOKだけど、ヨーグルトはダメなど)

 ― 母親はPTAの面談があるたびに、本当に嫌な顔をして、足取り重く小学校まで行っていた。

 そんなわけで、小学校の成績は5段階評価でほとんど1と2だけで、担当の先生が違う音楽と家庭科だけたまに3か4がある程度(音楽は好きだったし、何故か裁縫は女子にも負けなかった)なので、悲観した両親がそのまま公立中学(行く予定の川名中学は名古屋でも有数のできる中学だった)には行かせず、父親の勤める大学の付属中学(中京中学:今は廃校でない)へ行くことになった。
 これは、まあ甲子園で有名な中京高校(当時は中京商業、現在は中京大中京高校)の下にある中学で、当時ははっきり言って底辺校!野球部、サッカー部、体操部などの実力のある生徒の集まりで、将来高校でも活躍する予定の予備軍の集まりのため、勉強はいい加減、おまけに僕は部活動はスポーツはやらなかったので、放課後(名古屋弁だな)の時間は遊び放題だった!

 さて、交通事故の後遺症に話を戻すが、治療を進めるうちに、子供心にでも、竹原先生の学問的姿勢に時間が経つにつれて深い感銘や傾倒を覚えるようになった。それは今流で言うとエビデンスに頼らないということであった。僕に処方された薬は「脳代謝改善剤」「各種ビタミン剤」「アミノ酸(とくにグルタミン酸)」などであったが、その種類は多く、配合は毎回微妙に変化していた。後に、調剤してくれた主治医の話しによると、ときには大人の量の倍以上あったり、効き目の不明な未承認薬を出したりで、それもいわゆるエビデンス(学術的な証明)は一切ないとのことだった。
 最近、医学の世界ではエビデンスだけに頼る勢力に対し、巨大転換(パラダイムシフト)というエビデンスに頼らない勢力の台頭が目覚ましい。先ず様々な病気治療に糖質制限を採用するのがそうであり、がん治療に抗がん剤の無効を訴えケトン体質下でのビタミンC点滴の有効性を主張する医師たち、糖尿病治療でインスリンの値を高くしないよう治療をする方向、創傷治療でアルコールによる消毒を否定する方向など、従来のガイドラインを打ち破る多くの医師が出現している。
 こういった情報はネットにも溢れていて、その信頼性を判断するのはユーザー本人であるが、一つはっきりしているのは、パラダイムシフト派の医師はガイドラインを否定するような事実に直面した時に、必死に考えて治療法を探っていることである。僕もいろんな情報に接する中で、最近思うのは、いつか癌に罹ることがあっても、できるだけ抗がん剤は使わないかなということである。
 さて、竹原先生との研究室での時間は1時間を超えることもあった。当初は早く帰りたいなあと思っていたのだが、僕から細かい症状の変化を聞きだし、運動検査の結果を眺め(下に注)、今までのカルテと睨めっこし、薬の効用を僕に説明し、処方を組み立てていく姿から、普通の治療法では治らない病気を治してやるぞという意気込みを感じるようになったのである。そして、その頃には、僕も自分の病気と症状、それに処方されている薬の役割をしっかり理解するようになっていた。
――――――
注:例えば、関節を叩いて脚気の検査をするけど、その時の反応の微妙な時間の違いなどなど、様々であった。

 さて、そんな姿勢に心を打たれ改心したわけではないが、中学入学がきっかけとなって、英語だけ勉強し始めたのである。その理由については、以前書いた雑文の中で説明しているので、お時間があれば、そちらを読んでいただきたい。

https://note.com/verdefumin/n/ne925f409feb6

 小学校2年生の交通事故の後遺症、担任の言葉、本当に偶然命が助かったと幼ないながらにも実感し、あとの人生はどうなるか分からないし、貧しいけど楽しく生きようと、本当に好き勝手放題していたのが、上の雑文でも書いた境先生のおかげもあるが、竹原先生との約6年間(小3から中2まで)の治療で学んだ科学に対する姿勢を、僕もやってみようと思い始めたのが、ちょうど切りよく中学に入学した時であった。

 その後、どんな中学・高校時代を過ごしたかは、下の引用した以前の雑文に書いたので、それも読んでいただくとして、やはり、人生には導いてくれる人が必要なんだなあと、今更ながらに思うのである。

 おかげで、大学も東京にある、ある程度の有名私大に入学し、今の僕があるのはやはり竹原先生のおかげで、命を救ってくれたという点において恩人であるのは言うまでもないが、学問の世界に入った僕に、忘れてはならない姿勢を教えてくれたのだなあと痛いほど感じるようになったのである。それは「エビデンスに頼るな」「パラダイムシフトを目指せ」である。

 大学生になって。夏休みかなんかで名古屋に帰省していたとき、偶然バスの中で小5~6年の担任を見掛け、声をかけ、○○大学に行っていますと伝えると、本当に驚いた様子で「ご両親もさぞお喜びでしょうね」と、往時のことを思い出してくれたのか、しみじみとあれこれ話して、住所もいただき便りを出したのに対し、「本当にどうなることかと心配していた」といった返信をいただいた。

 竹原先生の消息は不明である。今インターネットで調べても五十年近く前のことは出てこない。でも、それでいいのである。もう五十年以上僕の心の中で生きているからだ。

続く



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