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若き思想家―ピアニスト、ジャン・チャクムル(5)

(※以下の翻訳は、「アンダンテ」誌の発行人・編集長セルハン・バリ氏の許可を得て掲載しています。また、質問に相当する部分は必要に応じ要約してあります)

――現代におけるコンサートホールの出入りの激しさという話に戻れば、あのような制限された時間の中でソリストと指揮者の効果的な関係はどうやったら築くことができるか、というのがすぐに頭に浮かぶ質問の一つです。大抵の場合それ以前に互いのことを知らなかった指揮者とソリストが、1、2時間という時間のなかで会い、共通の立場で理解しあい、同じ言葉を用いて話し、時には個人的な好みは諦めて歩み寄る必要があります。コンサートが成功に終わるようにと。そこで、このような協調はどうすれば可能になるのでしょう?

「オーケストラと一緒にリハーサルできるチャンスは、よく見込んでも長くて2日間です。これはリハーサルの合計時間にして大体1時間半ほどになります。これだけ短い時間で現実として室内楽の感覚を掴むことは、残念ながら不可能です。私たちが指揮者ととるコミュニケーションは、これまで私が経験した限りでは、常にきわめてプロフェッショナルなレベルに納まっています。両者が話し合って決定する事項は、基本的にテンポとルバートに限られます。作品をこのように標準化するアプローチを用いて準備することは、途中で音楽がもとになって矛盾が起きるのを防ぎ、パフォーマンス毎に一定の基準をクリアすることには役立ちます。しかしそれを超えて、真に異なる音楽経験を提供することもありません。コンチェルトで室内楽の感覚が掴めるのは、せいぜいリハーサルで時間が許す範囲で楽節ごとのタッチを確認する際に起こります。演奏の一原理として作品全体に広がる/広げられるものではありません。そのためには、私たちに許されている時間よりもっと長い時間を要するのです」

――音楽ファンがソリストたちを目にするのは大抵、舞台の上です。音楽ファンの目に映るソリストは、まるで決して舞台を下りることがなく、永遠に音楽ファンのために演奏をしてくれる存在であるかのようです。ソリストたちだって自分自身のために音楽を奏でて楽しむ可能性があるということを私たちは忘れてしまいがちです。
コンサートのソリストというのは、舞台上で、また自宅で演奏する際、どんなことを感じるのでしょう?

「コンサートというのはまず他の人たちのために開かれるものです。コンサートは、思うには、私たちソリストにとって能動的な状態です。コンサートでは音楽を特定のレトリックの一部として用います。私たちは解釈者として音楽に形を与え方向づけを行う立場にあります。コンサートで音楽家がもっとも恐れることは、おそらくコントロールを失うことだと思います。一方、独りで弾く場合には、音楽に対し受動的になれる贅沢を手にしているといえます。こうした時間をもつことで、私たちはようやく、音楽に導かれるがままに自分たちを委ねることができるのです。舞台に立つのは、氷山の上に顔を出している部分に過ぎません。コンサートを開くということがいかに特別で精神的な活動であるか説明できればと強く望んでいましたが、現在舞台で私がより強く感じるのは、自分は何をどのように弾くべきかという考えです。例のよく知られた “恍惚状態で弾く” という状態には私はまだなったことがありません。私たちは、もしかしたらその地点に達したいという望みを抱いてコンサートに出ているのかもしれません。もしかしたら、コンサートの興奮が人を中毒にさせるからかも…」

――ジャン・チャクムルは今月から、楽器用に編曲された作品を舞台で披露する準備をしています。例えば、新しいリサイタル・プログラムのひとつは、全体がシューベルト歌曲のピアノ編曲集で構成されています。チャクムルのレパートリーには何十ものオリジナルの楽曲があるというのに、なぜこのようなリサイタル・プログラムを選択したのか、アンダンテの読者に彼はどのように説明してくれるでしょうか。

「ピアノ編曲集は私が特別に関心を持っている分野です。編曲作品は、私が好きで演奏したいと思いつつもピアノのために書かれたわけではない作品を直接に経験する機会を与えてくれます。私が演奏しようとしている編曲集(シューベルト「白鳥の歌」)を作ったのがリストのような天才であることもまた、作品にシューベルトを超える価値を与えています。この理由でプログラムには、作品がリストの手によるものであることを書き加えています。私にとってこの作品集は、シューベルトの音楽がリストの目を通して作曲し直された状態だからです。編曲作品に対して向けられるもっとも主な批評は、オリジナル曲があるというのに一体どんな理由で編曲したものを聴きたくなるだろう、という疑問に基づいています。このような反論はおそらく、無作為に行った交響曲の編曲版については通用するかもしれません。なぜかといえば、こうした編曲は演奏する者が自分の楽しみのために行ったものであり、ほとんどの場合コンサートホール用に書いたものではないからです。ところがリストがシューベルトの歌曲に対して行ったのは、時にはあるがままに、時には交響楽的なスケールで、時には技巧的な器楽曲として一から構成し直すことでした。従ってこれらは、原曲のかたわらで、ピアノが単独でどれほど豊かな楽器であるかを見せるために演奏して聴いてもらう必要があると信じています」


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