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マッサージという体の対話と愛について
愛の伝道マッサージ師匠との出会い
誕生日、私はマッサージに行って、なぜか最初から意気投合した南米出身ロドリゲス師匠(仮名)に、マッサージを伝授されることになった。
師匠の経歴は一言じゃ説明できないほどおもしろいけれど、とりあえず本業はジャーナリストと書いておく。そして宣教師の勉強を七年もしていたけれど、日本人の奥さんと南米で出会って三年の遠恋、文通の果てに何もかも捨てて日本に来たそうだ。
私はなぜか突然マッサージに行かなきゃと思って行った。どうしても体がつらいとかそういうわけではなかった。でもなんとなく調べて、なんとなくここに行きたいと思い、なんとなく行った。
だからそんなにお金と時間をかける気もなかったけれど、最初に耳を触られてマッサージが始まると、このマッサージは効果があると体で感じた。
というのも、私はそもそもエンパス気質というか、共感能力が人よりも高く、体にも人のエネルギーを受けやすいところがある。マッサージも相性というのがあり、以前、変な夫婦に頼んでもない気功マッサージとかで短時間背中をなでられただけで、秒で気持ち悪くなりその日は吐いたことがある。
以前通っていたマッサージの院長は腕がよかったけれど傲慢で偏屈で、ある時、私が腰を痛めて行くと、
「ぎっくり腰ですね」と言われた。
それまでのぎっくり腰とはちがう感覚だったので、
「そんな感じしないですね」と感想を述べると、
「俺がそうだって言ってんだからそうなんだよ!あんたも頑固だな!」
それはおまえだろと言いたくなるような暴言を院長に吐かれ、私は心を閉ざしてしまった。
すると体もシュっと殻に閉じこもった感じになり、その後の治療が一切効かない。さすがに院長もまずいと思ったのか治療費は安くしてくれたが、暴言を謝罪もしない。
その後、この院長のモラハラにあっていた女性に個人的にお願いするようになるが、彼女は誠意がある人で、とにかく誠実に私の体と向き合ってくれるので、私の体も自然と彼女を受け入れる。
ある時、ぎっくり腰で動けなくなった時、彼女は自転車で私の家まで来てくれて、一発で治してくれたことがある。そういったことの積み重ねから相手への信頼もあり、私はいつも彼女にマッサージを頼むのだ。
今回私は地元にいなかったのもあり、ロドリゲス師匠のところにたまたま行ったのだけれど、師匠のマッサージには愛がある。
マッサージが終わって、体がすっかり楽になった。最後に全身鏡で自分を映されて
「どうですか? あなたは素晴らしい人です。もっと自信をもちなさい」
と言われた。
さらにこのように言われた。
「人生で一番大切なのは愛です。人を愛し自分を愛しなさい。あなたは自分を愛してますか?」
この時、私は答えられなかった。
人を愛しているかと言われると、「はい」とすぐに答えることができる。
でも「自分を愛しているか」と言われると、私は言葉に詰まったあげく
「わからない……」
と答えた。
自己肯定感が低いところもあるけれど、自己愛はちゃんとあるわけで、自分の存在を全否定するほど、自分を拒否してるわけでもない。かといって、愛しているかと言われると、どうなんだろうと考える。
そんな私の様子を見て、とてつもない効果のあるこの愛のマッサージを私に伝授したいと言ってきた師匠。
『このマッサージをマスターした時、あなたは別人になります』
師匠のこの言葉で私のマッサージ修業がスタートした。
マッサージ指導初日に起きたこと
師匠はまずマッサージの心構えとしてこう言う。
「あなたが外で何か嫌なことがあっても、マッサージの場所ではもうそのことは考えない。そしてマッサージの時にしたことはここを出る時にはもう考えない」
これは何となく意味がわかった。
私が日本語教師として対面授業をしていた時、いつも心がけていたのは、どんなにプライベートがボロボロでも教室に入ったら先生はいつもご機嫌、授業は楽しく!だった。学生の前では絶対に出さない。教室の空気は自分が作る。学生が学習しやすい環境を常に提供する。こう考えていた。
だから自分のメンタルの影響をマッサージする人に与えない、常にベストな状態で真摯に向き合うってのはよくわかる。
でもじゃあ、外に持ち出さないっていうのは……?
この時はそれがわからなかった。
そしてさらにわからなかったこと
「あなたはマッサージする人に恋をします。私もマッサージの時、相手が女性なら妻のことを忘れてその時は彼女だけ愛しています。でも大丈夫。そうなっても、マッサージが終わって、その人が去れば、私はもうそんな気持ちない」
ここで私は質問。
「師匠がマッサージをしているときに相手に愛をもって接しているのはわかるし、私も愛は大事だと思うけれど、なんで恋? 恋ってもっとエゴっていうか、相手より自分っていうか、相手を大事にするようなことではないというか、少なくとも私にとって、恋は小さくて、愛は大きい」
これに対して、師匠はどう説明しようかと言った顔をしたが、突然トイレに行きたいと言って、店の外に出てしまった。その間、ここまで教わったマッサージ技術をメモしてまとめておけと宿題と残された。
私は図を書いてこれまでの手順を書いてみたけど、自分の体にされていると当然ながら師匠の手つきは見えないし、何よりさっきの「恋に落ちる」ってのが何のこっちゃってぐらいにわからない。
そんなことを考えていると、突然若い男性が「マッサージお願いします」とやってきた。予約ではなく飛びこみのようだ。
まあ暇そうだし、待たせていると、師匠が登場。
そして私も見学OKの了承を得て、彼のマッサージをすることに。
しかも、最初から私も師匠がしたあとに同じことをやらせてもらえることになった。
そのマッサージをさせてくれたAさんは、とても引き締まった体をしていた。自衛隊の人らしい。師匠は直接人間の肌に触りたくないというのがあるようで、私の時もタオル越しだったけれども、Aさんに対してもそうだった。
私も師匠を真似てAさんにタオル越しに触れるが、知らない若い男性の体を触るのはなんだか気恥ずかしいし、素人の自分のマッサージなど申し訳ないという気持ちがあり、最初はかなり緊張していた。
ところが、ずっと触れ続けていると、不思議なことにAさんの体がまるで自分であるかのような、なぜかとても親しみ深いものになっていった。自分と相手の境がなくなっていくような感じ。そして私もだんだんAさんの筋肉の反応や体の動きで、痛いのか気持ちいいのかがわかるようになったし、何となくここをほぐすといいのではないかというポイントをつかんできた。
師匠はよく体と体で対話するということを言うが、これがそうなのかもしれないと感じた。口で会話していることとは別の部分で相手の考えが読めるというか、言語化できないけれど、感じ取ったものに、私の手や指は反応している。
最初は緊張していたけれど、親しみ深くなったその体がだんだん愛しいものになっていった。そして優しくしたいと思ったし大事にしたいと思ったし、気持ちよくなってもらいたいと思った。
これか!
これが師匠の言う「恋に落ちる」ということか!と。
じゃあ、私が今まで恋と思ってきたのは一体なんだったんだろう。ただ相手に「自分を見て!」と求めてばかりだったし、相手にやさしくしたいとか、自分の一部のように感じながらも大事にしたいとか思ったことなんて一度もなかったようにも思う。
初めての感覚に「楽しい!」と思った。
「楽しいですか?」
と師匠も笑顔で聞いてくる。
「はい! 人間の体楽しい!」
師匠が言うには、Aさんの体はとてもマッサージがしやすいということだった。ストレスや疲れはたまっているが、油でいうと、それほど汚れた油じゃないと、一つ一つ袋に入っているものをほぐしてつぶして流していけるぐらいのもので、要するにコールタールみたいな感じではないということだ。
それと同時に私が思ったのは、この人は変に屈折したところのない人だということ。肥大化した自我の厄介さもなければ卑屈こじらせてめんどくさいということもない。だからだろうか。初心者の私でもマッサージがやりやすかった。
Aさんは予定がないということで、30分どころか2時間半もマッサージをやらせてくれた。私にとってはAさんも先生だった。
教えることが大好きで弟子ができてうれしくてたまらない師匠と、体のおもしろさで楽しい私と、30分料金でたっぷりマッサージをされて逆にお礼を言って帰ったAさん。それぞれがそれぞれに喜びがあり、完璧だ。
Aさんが帰った後、後ろ姿を見送る師匠。その歩き方でマッサージの効果が確認できるらしい。
「彼は満足しましたね」
それは見るまでもなく、Aさんは来月また来ると師匠に約束していたから、効果てきめんだったのだろう。
たまたま来たAさんと、たまたまそのタイミングで指導がしてもらえた私。実は師匠は寝坊して、朝9時半から始める予定が、なんと来たのが11時。でもこうなってみると何もかもが完璧なタイミングに思えた。
そして私はAさんを見送った後、師匠に言った。
「師匠!私はマッサージの間、Aさんに恋してました! 師匠が言う恋というのは、相手を大事にしたい、優しくしたい、いたわりたい、だから恋なんですね! 愛と恋にそこまでの境がないんだ」
なんと、私の「恋」とはあまりにもちがうので理解できなかった。そして私のこれまでの「恋」は未練や執着もすごかったけれど、師匠が言ったとおり、マッサージが終われば私はAさんに対して何の執着もないし、ただマッサージの時だけが自分の一部で自分の愛おしい存在で愛情対象だった。
が、その後に私に残ったものがあった。
突然右の首から肩にかけて、鋭い痛みが走ったのである。
それはAさんが痛めていた部分、ほぐした部分だった。
エンパス師弟
師匠に右の首から肩が痛いというと
「それはAさんの痛みです」
ちなみに師匠はAさんをほぐしているとき、何度かせき込んでいた。
「これはAさんの悪いもの。私の中に入ってきた。だから出します」
その時、私はもしかしたら師匠もエンパスでは?と思った。だから直接触りたくないのか。しかも師匠はそればかりか相手からイメージも受け取るようで、触れた人が誰を愛しているかとかどんな感情を持っているかとか何に悩んでいるかも見えてくるらしい。それに対して体と体でカウンセリングするのだ。
そこまで見えるならそりゃ直接触りたくもないだろう。ただタオルで隠すと体が目で見えないのでどこを押していいかがわからないが、逆の手探りで感覚だけで探るのでここだということころに触れると指が入り込んでいく。
ちなみに師匠には足の内側には触れないように言われている。性的な部位だ。触る人もいるそうだが師匠の主義としてそれは触れられないゾーンだそうだ。それでもある部位によって、その人が性行為があるかどうかもわかってしまうらしいし、おもしろいのが、同性愛者がくると、相手が性的なものを連想してそれが伝わってくるので、奥さんラブな師匠は相手が男性で自分と交わる妄想をするとそれも伝わるそうで嫌な気分になるらしい。しかもそれが映像で見えるという。
私は映像よりも相手と感情同化することがこれまでにも多かったが、この時はそれはなかった。ただし、痛みをもらってしまった。
師匠はすぐに私の肩をほぐしてくれて痛みは消えたが、今後マッサージをして一人でそのようになったらどうしたらいいのかと聞くと
「シャワーを浴びるか木にしがみついてください」
と師匠は言った。
木にしがみつくというのは、私が幼い頃からやっていたことだ。
嫌なことがあると近くの公園に行き、木にしがみついていた。この話をすると「蝉か」と笑われたりもしたけれど、そうすることで自分の体の調子が整うのだ。
ホテルで働いていた時は、休憩室のタバコの煙と悪口大会が嫌で、あのよどんだ部屋にいるぐらいなら外がいいと、やはり近くの公園で木にしがみついていた。だから師匠が木にしがみつけと言った時は、私の子供時代にまで入り込んだのかと思って少し驚いた。
Aさんを見送った後、すぐ手を肘まで洗えと言われて洗ったけれど、そういうことか。それでも私はもらってしまった。
さらにおもしろいのが、Aさんは携帯を忘れたと言って戻ってきたけれど、私も携帯をなくした気がして昼ご飯の買い出しのとき、ずっと携帯はカバンにないと思っていた。実はあったのだけれど、本気でなくしたと思っていた。こういう心理までうつるのだろうか。
まあこのように自分も痛みを感じたり、悪いエネルギー?が入り込んだりもするけれど、マッサージの時、不思議なことに癒されていたのはAさんだけじゃなく、自分自身でもあった。相手が自分を信頼して体をあずけてくれると、自分が相手を労わるような気持ちも相手に流れやすくなり、それはまるで自分自身を労わるような循環になるのだ。
これはもう感覚的なことなのでどう書き表していいかわからないけれど、相手の体を大事にすること、それは自分自身を大事にすることだ。
体は多くのメッセージを発していて、その一つ一つを体で感じ取るとそこに境界もなくなり、相手は自分になり、そこに愛を感じると、相手に注いだ愛は自分の中でも満ちてくる。
自分を愛することは人を愛することにもなる。それを理屈ではなく感覚で体験した。そして師匠は少しずつ段階的に私に教えようとしていたようだが、Aさんが介在したことで、いきなり高いレベルから始まったということを言っていた。そして私は習得が早いらしく、師匠は妙に喜んでいた。
初回からこれなら、確かに私は師匠からすべてを伝授された後、別人になるのかもしれない。けれどもそれは生まれ変わるというよりもそもそも自分の中にあるものを解放するという感覚だ。なぜならこういうことを以前もどこかでしていたような気がするからだ。
今日気づいたというか、思い出したこと。
人を癒すということは決して一方方向なことではなく循環であり、相手を解放することと自分を解放することは同時に起こっている。
なんだかものすごく濃い一日だった。
帰宅するとすっかり疲れて、寝不足かと思ったけれど、師匠に言われたことをまた思い出してすぐシャワーを浴びた。少し体が軽くなった。
人を愛すること、自分を愛すること、体との対話、エンパス能力の活かし方、いろいろなことがわかりかけている。