夏が似合わない女のレンズ
「夏って感じじゃないよね」
幾度となく、わたしは他人にこう言われてきた。事実わたしは冬生まれだし、雪の降る町で育った。しかしそうであっても、夏というイメージを醸し出す人はいるじゃないか。玄関から秒で海という家に育った。海に対する特別な想いだってある。夏が嫌いなわけでもない。むしろ、冬よりどう考えても夏。なのに、夏のイメージにあなたはそぐわないと言われる。夏にくらうは門前払い。
夏が似合う人とは?
明るくて開放的でおおらか。日焼けが似合う。アウトドアのイメージ。カラダを動かすのも好きそう。そう、たくさんの友達に囲まれて笑っているような。
ああそうだな。こうやって言葉にすると、納得が増えてくるというもの。
これは上述とは関係のない話なのだけど。
周囲を鮮明に照らしている人ほど、他人には想像し得ない暗い影がある。
人はその光ばかりを眩く捉え、その背後にある影を想像しない。
目に見える活躍や功績ばかりを讃え、その背景や歴史を見ない。そしてその光が消えた途端、別の光を探し求める。
光が鮮明に映っているということは、それを際立たせるだけの暗さを持つ影があるということ。その光しか見えないのはその人の意図や努力によるものなのかもしれないが、見る者の視力にもよる。その視力こそが大事なわけで。
この世は何もかもが紙一重で、陰陽なのかもしれない。
この無色透明な世界は、視点次第で陰にも陽にもなる。思考次第で虹色にも鉛色にもなる。曇った目で見たもの全ては曇る。澄んだ目で見たモノは。
自分の心をレンズと捉え、日々きゅっきゅと磨いては世界を視ること。
自らに潜む影の存在を知り、光と同じくらいそれを肯定すること。
現れている表層だけを見るのではなく、背後にも目を凝らすこと。
夏も冬も、どちらも必要があって存在している。
夏が似合わないわたしにだって夏に浸入される可能性はあるし、夏を覗く権利だってある。