あらゆる侵略は解放の仮面を被っている。

 ※2023/08/30に書いたものです。投稿にあたり個人名の部分を一つ編集しました。

 近頃自分がしたいことなりたいものは何か、との問いを前にして最も大きなものとして浮かんでくる像は現代の文豪、そして革命家だった。利己的動機に支えられた利他的実践、またはその逆といえる。どのみち欲望である。

 現代の文豪っていうのは簡単にいうと大衆に向けた広く受け入れられどこか拠り所となり得る公共の財産として自分の作品を、ミイラのように作品化された自分自身とともに残していくあり方を言う。図書館の隅で埃を被る文庫とか公園の彫像とかのようでありつつも、自分の思う美というか面白いものを詰め込んで受け手の中で炸裂させる。多かれ少なかれマンガやコントや美術局とかゆっくり実況者の頃から一貫する性質として物語付けして納得できる。スタンスとして前面に出てきたのは岡本太郎の影響だが。

 革命家。問題はここ。烏滸がましくも自分の人生を人間の歴史の中に位置付けた時、自分のしたい文化に根ざした精神活動、ひいてはその連続点としてなる自分自身が、かつての宗教よろしく「民衆の阿片」に終わらないか。時代と共に泡と消える消費対象に終わらないか。感情で大衆を動員し経済、政治的効果を生むだけの傀儡と終わらないか。終着点としての境地に対する疑念が浮かぶ。その答えとして上がったのが革命家としての役割だった。

 何かしら抑圧下にある人に対し積極的な逃げ道、そうじゃない生き方を提示することはひとつ自分の理念としてある。人から借りてきた言葉ばかりでみすぼらしいものに思えるが、具体的には技術革新の牽引する新様式の社会を人間的なあり方として適用するお手伝いとなる。新自由主義的な競争の土俵に誰彼構わず放り込み、青春を一過性のモラトリアムと化し生きがいを見失わせ最も自分の適性を活かせるものではないところで労働力として擦り減らし、学校のように閉じ込められながら適合できない者は圧迫される一方になる。自分の周りを囲い込み生き延びることに必死になり、自己責任論が飛び交い、役に立つものばかりを価値あるものとして選定する。善性すらその武装の一部として回収される。こうした現状を打破しこれからの日本にBIに基づくナンセンスで芸術的な生き方を導入させるお手伝いをすることになる。こう考えていた。

 問題は、新自由主義の抑圧下にある人間を解放し文化的ナンセンスの尺度で生きさせるというこの考えが、まるまる自分による現行社会への侵略行為になるということだ。資本主義から逃走した先のプラットフォームを確立する、新世界を創るといいながら、逃げ込んだ先の新地平で結局自分を崇拝させようとしていないか。感情で人々を動員した末にポピュリスト的国家を建設するだけじゃないか。ひろゆきとか、市場の中で従順な消費者として飼育されるZ世代だとか、(←ちょっとズレたから消した)新自由主義に適合的なポピュリストが跋扈し焼け野原のSNSを飛び交う、迷える羊たちはその統治者の声を受け入れ被支配に安住する現状において、ただ抗い逆の流れを生もうとする「声の大きい馬鹿」に自分がなるだけでないか。「全員が救われる都合のいい現実なんかありゃしない」と(友人K)が言ったのを思い出す。委員長選の光景がいつかの未来既視感として思い起こされる日が来るのかもしれない。行き着く先はわからない。だから、今できることをするしかない。いや、別にこういうことを書きたいんじゃない。ただ昨日の授業には深く自省を促された。

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