禍話リライト 怪談手帖『変容の実例』
……これはいわゆる『怪談』と言っていいものか。実際のところ、かなり怪しい話である。
ただ、僕(怪談手帖の提供者である余寒さん)が収集した中でも、
『天狗』
というものについて、珍しいアプローチがされている体験談であり、僕自身、話者の方からの聴収において寒気のするような一瞬を味わったので、ここに紹介しておきたい。
世間に災禍が蔓延するよりも前のことである。
「……こういうのって、夢の話でもいいんだっけ?」
図書館横にある談話スペースで、友人伝てに紹介してもらったAさんは何度も逡巡していた。
僕が『是非聞かせてほしい』と答えると、
「……正確には、夢だと思うんだけど、よくわからない、というか。
夢が現実に溢れてきた、みたいな……。
それで何かがおかしくなった、みたいな……。
とにかく、あんまり、普通じゃない体験だから……」
と、どこか引き攣ったような顔で何度も念押ししながら話してくれた。
大学時代。
社会学系の学部、そこに属していたというAさんは一時期、精神を患い、強い薬を常用していたことがあった。
「……今も完全に治ってるわけじゃないんだけどね?
そういうのって、ほら。完全回復ってないから。
でも、一番ひどかったのがその頃でさぁ……」
処方で取り決められたものよりも、ちょっとずつ多めの量を飲む。時々、不安に負けてオーバードーズにはしる。そんな調子だ。
そのせいか、なんとなく常に足が地につかないようで、頭がボンヤリしたり、逆に妙にハッキリと冴え渡るような気分になったり、安定しなかった。
とはいえ、惰性的に物事をこなす分には問題がなかったから、学校へは出ていたという。
家族が服薬によってそっくりな状況だったことがあるので、僕もいくらか理解できる。
その時期にAさんが入り浸っていたのが、共用の研究室だった。
正確には教授の部屋だったそうだが、本人があまり使わずにいた上、ゆるい時代というのもあって半ば解放されているような状態だったため、歴代の学生たちの私物や蔵書なども持ち込まれ、雑然とした様相を呈していた。
その頃のAさんは、教授や他の学生のいない時間帯を選んでそこへ行き、本の山に囲まれて、そこらから本を取ってはボーッとページをめくって時を過ごしていたそうだ。
その時に、一冊の本を見つけて読んだのだという。
それは、さほど厚くもない、ひどく古く見える冊子で、彼の話を聞くと一般に出回る書籍ではなく、いわゆる学会誌、専門分野の会員向けの冊子のようだった。
それも人文学系のものではなく、自然科学、医学系に近いものに見えたらしい。
教授の私物か、あるいは前述したようなゆるい有様だったから、何かの拍子に紛れ込んでもおかしくはない。
しかしAさんは、その本を、夢の中の産物。つまり、部屋で朦朧とした時に見た幻のようなものに過ぎないのではないかと疑っているという。
何故かというと、その内容があまりにもおかしいものだったからだ。
Aさん曰く、そこにはある特定の現象についての報告、論文が寄せられていた。
「……端的に言うと、仏像。あのお寺なんかにある、仏様の像ね。
その形が崩れていく、おかしくなってく、っていう。それをまるで、人間の病気みたいに紹介してるんだよ」
Aさんはノートとペンを引き寄せると、まず一番上の部分に一つの文章を書いた。
『変容の実例』
「……ボーッとしてたし、メモしたわけでもないから細部はあんまり覚えてないんだけど、この言葉は妙にハッキリ頭に残ってるんだよなあ。
確かこういう、途中に挿入されてた写真に、こんなタイトルがついてたかなあ」
そのまま彼は記憶を呼び起こしているようで、上二つ、下二つの四角の枠を描き並べた。
「で、白黒の写真でさ。だいぶ荒いんだけど、仏像がどんどん崩れていく過程が写ってて……」
ペン先で、枠の中へ人型を四つ描いた。
左上から右下の順に、それぞれ。
正常なもの。
少し、へこんだようになっているもの。
歪んで形が崩れているもの。
完全に崩れきって、原型のなくなっているもの。
……に見えた。
そしてAさんはさらに頭を捻りつつ、それぞれの枠の下に、
『図一、出現前の段階』
だとか、
『図ニ、◯◯期まで進行した例』
といった、うろ覚えらしいキャプションを書き入れ、その下には横書きの本文を示した。
レイアウトされてみると、それは確かにその手の論文の形式のようだ。
僕も仕事で歯学系や消化器系の医学論文の構成を行ったことがあるが、ちょうど患部の比較、術後の変遷などの図がそのような感じで挿入されていたからだ。
「……えっとねェ。それから例えば背中の装飾、光背(こうはい)っていうんだけど、光背の部分が腐って変色してる例だとか。
あの、仏像の頭をトリミングした写真で。頭のアレね、螺髪(らほつ)。
螺髪が潰れて、気味の悪い腫瘍みたいになってる様子だとか。
そういうのが、こんな感じで、延々と……」
ノートの上に、Aさんの記憶から拾い起こされた『変容の実例』のスケッチが、幾つも、幾つも出来ていく。
他にどうやらそれらの仏像の収められていたらしい、寺や地所についての写真もあったという。
「で、それで、本文の内容もそこまでしっかり覚えてるわけじゃないんだけどォ……」
Aさんはチラリと僕の方を見た。
「どの論文も、それを『天狗』って表現してたんだよねェ」
僕は思わずハテナとなって彼の顔を見直した。急に突飛な単語が出てきたからだ。
そんな僕の困惑を見透かしたようにAさんは、
「……バカバカしいだろ?
でも、その本の中ではあの、高い鼻とか嘴とか。翼とかがあって、山伏みたいな格好したアレ。じゃなくて。
要するに、仏像に要因のわからない病気とか腐敗みたいな、何か取り返しのつかない変形や劣化が起きること。
それを『天狗』として説明してたんだよ。
ま、厳密にはもっと小難しい表現だったけど。
まあ何にせよ。それが天狗ってのはそういうものだってことが、仮説だとか個人の主張だとかじゃなくて、前提として書かれてたんだよね。
何だか、全然違う世界の書き物をウッカリ覗いちゃったみたいで、どうも気持ち悪くて。
仮に夢にしたって、脈絡がなさすぎる。俺の頭の中のどこからこんな理屈が出てきたんだろうなァ、って。
だって俺、別に天狗や仏像に興味があるわけでもないし、何かの思い出やトラウマがあるわけでもないんだよ?
せいぜい修学旅行で見た京都の仏像とか、天狗印のお酒のツマミくらいだよ。ホントに。
……あ〜、そうだ。あとは途中に仏像の顔の写真ばかり載ってるページがあって、印刷のせいか肝心の顔はほとんど、潰れてたんだけど。
それ、どうもあんまり良くないなアって直感があって、そこは飛ばし気味に読んだり……」
語り続けるAさんを前に僕は困惑しつつも、彼曰くの夢の本の論理に呑まれていた。
確かに、夢の中の出来事であれば、おかしな価値観も飛躍した論理も何でもありだが、彼の語る架空の学会誌の報告には、妙に生々しい感じとゾワゾワとする異様さとが同居していた。
Aさんは、黙り込んでいる僕を気にする様子もなく語り続けた。
「……で、その本についてはその後も何度か見かけたり、手に取ったりした記憶があるんだけど、結局いつのまにかなくなっちゃってて。
教授やゼミ仲間に訊いても知らないっていうから、やっぱり薬飲みすぎておかしくなって、そういうものがあった気になっただけかもしれないなって、考えてたんだよ」
「なのに……」
その後。
精神的に少し安定し、薬が減って、
(変な夢だったなあ)
そう思い返せるくらいになった頃。
Aさんはゼミで課された実地調査の一環として、とある地域に出向いた。
そして、散策がてら現地の山へ上がった時。
昼日中とはいえ深く分け入り過ぎたことに焦り、山中を急ぎ足で進んでいると……。
ある一角で、強烈なデジャヴを覚えた。
「……それは、あのいつかの本に載ってた、風景写真の一枚だったんだ」
靄のかかった記憶の片隅にある、小さな白黒の風景。
それと全く同じ構図を、目の前の岩壁、その間の特徴的な形の入り口に対して感じたAさんは、疑念や不安を抱くよりも前に、何かに惹かれるようにフラフラと入っていった。
それは、後から考えれば、麓のどこかの寺の奥の院だったのかもしれない。
しかし、それらしい表示も何もなく、行く手の草や苔の具合からしても、もうずっと人が踏み入っていない様子だった。
ただ。
冷たい岩壁に手を当てて踏み込んだ、その中には。
幾つもの仏像のシルエットが並んでいた。
「アア、やっぱりあった……、ッてね。
なんか、もう、その時点で感覚がおかしかッたね。今思えば」
入り口に佇んだAさんは、ただジーッとそれを眺めていた。
驚きなどよりも、重苦しい諦めのような感覚が。風景のデジャヴの瞬間から、歩いてくる間ずっと胸中に生じていたという。
頭上に明かり取りのようにしてポッカリと空いた小さな穴、そこから細い光が差し込んでいる。
やがて、その薄い光の下で、Aさんは見た。
岩を背に無造作に肩を並べた、大小さまざまな仏たちの輪郭。
厳かで凛とした、その姿。
それがいきなり、実験ビデオの早回しのような速さで、ひしゃげて、崩れて、黒く萎んで潰れていく。
上から物凄い力で踏み躙られて、身を捩る虫の群れのように……。
「ああ、これだァ……、って」
Aさんは遠くを見るような顔のまま、話を続けた。
「なんていうか。目撃だとか偶然とか、そういうんじゃなくて。
ああ、これ、
『確認作業』
だったんだなア、って」
見れば、そこには黒くしなだれた、大きなキノコの群れのようなものが、岩壁に沿ってグジュグジュと残されていた。
「で。そこで、さらに気づいたんだよ」
崩れた仏の群れを、全体で一つの塊として。
もっと別の、何かの稜線や輪郭線のようなものとして自分が認識していることに……。
だから、それぞれの顔だとか表情だとかは、どうでもよかったのだ。
(……ああ、そうだ。これは『天狗』なんだ)
何の理屈にもなっていないのに、そのようにしみじみと頭で理解してしまった。
「……だから、あの本の仏像の顔ばっかりのページで写真が潰れてたのも、そういうことだったのかなア、ッて。
ア、いや。こうやって話しても、何の説明にもなってないことはわかるんだけどォ。
……なんだろうなァ。なんか、怖いとかより、ホントに、諦めだよね。もう、受け入れるしかない、みたいな」
気づけばAさんは、下山の途を驚くほどしっかりとした足取りで歩いていた。
あの奥の院のような洞穴に行く道は、もう自分でもわからなくなっていたそうだ。
「……だからさァ。
結局、さっきも言った諦めというか、取り返しのつかない実感みたいなのを、その時に刻み込まれちゃった感じがするんだよな。
あの本で説明されてた天狗と、崩れてく形の腐ったような仏像の写真。
なんか、思い浮かべたら頭の中でしっくりきちゃうっていうか……」
「……それが原因なのか、何なのかわかんないんだけど。
それ以来、俺の顔もちょっとだけ変わっちゃってさァ」
「……えっ?」
「自分では、鏡見てもよくわかんないんだけどさァ。ほら!」
そう言ってAさんは唐突に、昔のものなのだろう、自分の写真を懐から出して僕に見せてきた。
そこに写っている男性の顔は、確かに目の前の人間と同じものだ。
ただ確かに、何かが決定的に変わっている。
その正体が掴めずに困惑している僕に、Aさんは……。
「……俺、もう、ずうゥーッと。まともに笑えないみたいなんだよねェ」
そう言って、ギュウッと。
顔面の片端だけひしゃげたような、奇妙な表情をしてみせた……。
(か)「……昔さ、そういうさ。民俗学とかそういう、『神を降ろす』みたいなものって、結局、薬物でトリップして近づくみたいなのあったじゃないですか」
(加)「まあ、確かにね」
(か)「あの、ホントかどうかわかんないけど、大麻を吸ってたりした、とか。
だから『松明(たいまつ)』っていうんだっていう、ふざけた語源の説の話がね。ホントかどうかっていう、諸説ある中の一つの説に(あるんだけど)
じゃないけど、トリップして神様と交信する、みたいな。
……だから、知らない内に(Aさんは服薬でそれを)やっちゃってたんじゃないのかと俺は思うんだよね。これは別に余寒くんのアレじゃないんだけど。
俺はそういう風に、結びついちゃったらもうしょうがねえ、って」
※仏教において、衆生が生前の業に応じて死後に赴く世界を『六道』と呼ぶが、それとは別に、修行を重ねたにもかかわらず心が邪悪だったために悟りを開けなかった僧侶が死後に堕ちる世界を『天狗道』という。
そのような者は仏道修行を詰んだために地獄へ堕ちることはないが、修行を重ねたという慢心故に悟りを開けない。つまり、輪廻を抜けて極楽浄土へも行くことはない、とされる。
他の修行僧や信者を護り助ける天狗もいるが、一般には生前悪心を持って天狗道に堕ちた者、すなわち『悪天狗』は他の僧侶の修行の邪魔をし『自分と同じ天狗道に堕とそうとする』のだという。
この話はかぁなっきさんによるツイキャス『禍話』 『シン・禍話 第五十夜記念 余寒vs加藤よしきスペシャル』(2022年3月12日)
https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/724224875
から一部を抜粋、文章化したものです。(0:47:00くらいから)
【怪談手帖】つきつけられる「現象」の前に/『禍話(まがばなし)』より「変容の実例」【切り抜き】 https://youtu.be/0-8q8-vEEN8
禍話Twitter公式アカウント
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禍話wiki
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禍話リライト 怪談手帖『変容の実例』 - 仮置き場
https://venal666.hatenablog.com/entry/2022/03/15/213848
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