人の「声」とその失われていく可能性の話。
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1. 与えられたもの
人はそれぞれ生まれながらに「声」という楽器が与えられていて、例えその音が好みであろうとなかろうと払戻しはできないし、返品も交換も効かない代物…
こう聞くと不便にも思えるけれど、同時にそれは唯一無二のものであって、大きな可能性を秘めている。
時として弦楽器になったり、打楽器になったり、管楽器になったり、様々な音色を奏で、まるでその姿や作りさえもが変わったかのように思わせるような楽器が「声」なんです。
まずはその素晴らしい楽器を持っているという自覚を全ての皆さんに持ってもらいたい。
演奏次第、調整次第でほとんどの全ての方は、音楽することのできる最良の素材を持ち合わせているんです。
如何様にして声が作られ、整えられ、扱われるのかというのは今回のテーマではないのであえて深堀はしませんが、その機構の緻密さ、精巧さには人体の神秘すら感じ得ます。
2. 削がれ、失われていっているという現実
ところが、多くの人たちは声の出し方に不具合を感じ、うまく扱えず、悩み、無根拠な通説にまでも惑わされて、その唯一無二の声を失いかけているのが実情だと思います。
特に日本では、その文化的背景もあってか、
大きな声や通る声などの目立つ声が日常生活では煙たがられ、
口をハッキリ開けろなんていう発声の阻害にしかなっていない指導が当たり前に行われ、
地に足のついていないような浮ついた声の方やボソボソと自信なさげに話す人が多く、
腹から声を出せなどという安易な指導で怒鳴り声、がなり声のような歌唱を推奨されます…。
私は大勢の皆さんに尋ねたいです。
「その同質性は本当に必要でしょうか?」
「その方法は本当に理にかなっているのでしょうか?」
(演繹法と帰納法の違いもわからないような人に理にかなっているなんて言われても甚だしいばかり、巷の常識なんて前提から間違っていることの方が多いと思います。)
例えば、医者が誰にでも同じ治療処方をすることがないように、人それぞれに合った適切な対処がされるべきなんです。
何故そんな簡単なことを見落としてしまうのでしょうか?
3. ボイストレーナー市場の実態
悲しいことに
一部の音楽スクールでも「自身が上手くできている理由を1から解説ができないような講師」がボイストレーニングにつき、
ニワカ仕込みの知識で生徒を困惑させ、
間違った通説を出回し、
おかしなトレーニングをする人を増やしています。
その為、何年スクールに通っても声に変化が感じられず、
習っている通っているということに満足して、
「上達」という当初の目的すら見失って自己選択バイアスに飲まれている方々を私もいく人も見てきました。
そもそも悪評や裏事情なんか語り出したらきりがないのですが、これはまた別の機会にします。
「騙されるな、見極めろ。」とだけ言いたい。
そして何より現代において声を奪っているのはこの社会構造です。
巷では流行病に怯え、間違った恐れ方をして無駄に騒ぎ立てたり、まるで的外れなところに安堵を覚えたりしている人たちがさらに事態を複雑化させ、混乱を招いてます。
ただでさえ直接的なやりとりが希薄になり、声を使う機会の減っている現代に追い討ちをかけているのはいうまでもない事実です。
4. では声は必要なくなったのか?
私はむしろ真逆だと考えています。
こんな時代だからこそ、生の体験が減り、言葉の重みを忘れ、その脅威に自覚が持てていない人が増えてさえいる今だからこそ、
人は声の扱いに気を使い、人とやりとりする上で一番大切なことが何だったのかを思い出すべきだと思うのです。
私たちの意思は言葉だけで「その全て」は伝わりません。
表情、仕草、そして何より声によって表現されます。
発音、音程、抑揚、リズム、強調、息遣い、ピッチ、圧…etc
ありとあらゆる要素が掛け合わされて表現される人の感情、それら全てが声です。
それを忘れなくした時というのは、
「人が死んだ時」
でしょう。
心の繋がりなくして人は人たりえないのですから。
5. まとめ
心のやりとりが疎かにならないために、
声を取り戻してほしいです。
文章で全てが伝わるわけがない、かといって声で全てがつたわるとも断言はできない。
それでも人がその唯一無二の声を大切にできたのなら、人はきっと自身のことも愛せるのではないかと、私は思うし、そう信じたい。
音声版はこちらから(Himalaya)
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