短編小説:オレに構わないでくれ(3)
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何の変哲もないいつも通りの朝だった。
Grooveは混んではいたが居心地の良い空間だった。
トランペッターHとも話ができたし、そもそも彼がそこにいるなんて信じられないことだ。
だが昨夜は飲みすぎたわけじゃないのに酷く酔ってしまった。今朝は頭が少し重いがまあそれもよくあることでそれ以外ではいつも通りの朝だ。
部屋のカーテンを開けると日差しが眩しい。そういえば日の光を感じるなんて随分久しぶりのような気がするだ。
これだけ天気が良いと何か行動したくなったり、何処かへ出かけたくなるのは全く自然なことだ。
いつか以前ホームレスのやつが日の光を浴びながら公園のベンチから突然起き上がって腕立て伏せを始めたのをみたときは仰天したものだが、天気がいいとどんなやつでも一歩前に歩み出そうとするものなんだろう。
そのホームレスのおやじのようにオレは突然起き上がり何の脈絡もなく海へ行こうと思った。なんで「海」を思いついたのかさっぱりわからない。
晴れた日差しのせいもあったかもしれないがとにかく海に行きたいと思ったんだ。
海に行けばこのモヤモヤした気分が晴れるかもしれない。その程度の思いつきだ。そもそも思いつきに理由などない。
観光客が来ない、それでいて寂しすぎない海へとオレは向かった。
電車に2時間揺られある駅で降りた。何かを期待して降りたわけじゃない。そういえばここは例の伯母の別荘がありは子供の頃親に連れられて来た微かな記憶がある。駅前は開けていて人通りも多い地方都市特有の雰囲気。少しレトロ感がある商店街を歩く。人通りも少しづつ少なくなっていく。住宅地を抜けて辿り着いた小さなトンネルを抜けると一気に海の景色が広がり海岸に着いた。おそらく休日は地元のサーファー達で賑わうかもしれない、こんな小さな海水浴場だがシーズンともなれば地元の人間も含めてかなりの人が集まるのかもしれない。今は春だ。しかもが今日は平日。平日の海に一人で来るなど男と別れて心を癒すために来た女以外来ない。
オレは砂浜を歩いた。日差しは強かったが耐えられないほどじゃない。時間がゆっくりゆっくり流れてる。波の動きが張り詰めた気持ちを解してくれる。
時々聞こえてくる親子連れの笑い声、浜辺ではしゃぐ子供の声。近くに国道があって車が走っているんだが車の音も波の音とうまく溶け合って全く気にならない。白い砂浜、潮の匂い、穏やかな波、故心地よい風、広がる海、砂浜、貝がら、防波堤、太陽の傘とビーチの椅子、ゆっくりと沖に漂うヨット、高く青い空、白い雲、小さなえぼし岩、遠くに見える小島。ウインドサーファー、サップ。
この場所にデニムにスニーカーというカジュアルな出で立ちのせいもあるが明らかに余所者の雰囲気を発している40過ぎのオヤジ、つまりオレだ。
オレはゆっくりゆっくり歩く。春の日差しと海の香りのなか、ただただゆっくり歩く。仕事で常に急かされているオレはゆっくり歩くなんてことずいぶん長いこと忘れていた。
海辺の石段に座りしばらくこの海の景色を見ることにした。
タイミングの悪い奴というのは必ずいるものだ。強烈に場違いなスマホの着信音が鳴り響いた。緊急の仕事かもしれない。何か仕事上のトラブルかもしれない。証券会社の営業かもしれない。根はいいやつなんだがおせっかいな例のキツツキ弁護士かもしれない。だがオレは相手先を確かめずに静かに電源を切った。
頼む、今はひとりにしておいてくれ。オレに構わないでくれ。静かにゆっくり過ごしたいんだ。今は音楽さえいらないんだ。
波打ち際を歩く犬を連れた親子連れ、老人のカップル、若いカップル、地元の漁師。
海辺から少し離れたところに親子連れがいる。骨折でもしたのか、車椅子に乗った小学生ぐらいの女の子でもう一人は父親だろう、オレと同世代の品の良い男。この二人は不思議なくらいこの景色に溶け込んでいる。穏やかに娘を気遣う父親。そんな父を心から信頼してる娘。幸せそうな二人。こんなに和かに笑う親子を見たことがない。父親は貝殻を拾って娘にあげた。二人はきらきらした光に包まれている。
この美しい光に包まれた二人の様子はオレの心を打った。誰も二人の世界の邪魔はできない。恥ずかしいことだがオレは涙を流した。感動して涙を流すなんて今日はどうかしてる。トンビが冷やかして笑ってる。
「そういえば海の向こうの山沿いに大きな病院がある。そうだ、あの白い建物。あそこに入院でもしてるのかな。」
病院は車で2~3分ほどの距離だから今日のような晴天の日には気分転換に外出してるのかもしれない。「退院したらまた海に来られるね」オレは勝手にストーリを作った。それにしても仲の良い親子だ。この女の子は父親と一緒によく晴れたこの日、この海辺で過ごしたことを一生忘れないだろう。
父親は娘にブランケットをかけてあげる。やがて二人はゆっくりと車に戻りそして静かに去っていった。
穏やかに岩と戯れる波にオレは視線を戻した。ずっと心の中に仕舞い込んでいた感情が堰を切ったようにあふれ出てきて、幸せな光景をみたはずなのに泣けて泣けて仕方がなかった。石段に座ったままいつまでもいつまでもこの海を見続けた。