【短編小説】 イタリアンレストランにて
過去の記憶はぼんやりしている。
白くて薄い膜が張っているようだ。
写真もある、映像も残っている。その時よく聞いていたCDをかけるとはっきりした空気感を思い出され触感や香りさえ蘇ってくる。
間違いなく事実として経験したことなのに、それでも本当に自分の身に起こったことなのか分からなくなることがある。
思い出はいつも美しいものだ。二度とその楽しかった時に戻れないから哀しくなる、と誰かが全部わかってるような訳知顔で言っていたがそれは嘘だ。
目を瞑ってその時の状況を強く思い浮かべれば誰でも行きたい時代に戻ることができる。そんなことは簡単だ。
僕は思い出を確かめるために20年前の自分の家に戻ってみることにした。
いつものように突然過去に戻るとスマホがないなど多少の不便さはあるが、それを補って余りあるほど平和な世界がそこにあった。
20年前に飼っていたセントバーナード犬のパト。その時流行っていた服。音楽。
今はもう亡くなった妻がキッチンで洗い物をしている。懐かしい日曜の夕方の平和な光景だ。
彼女は手を休め優しい笑みを浮かべながら僕の目を覗き込む。
「今日何か食べたいものある?」
彼女はいつもどおりの優しく落ち着いた声で聞いた。
僕は少し考えてから言った。
「今日は一緒にイタリアンレストランに行こう」
彼女は驚いた後、すぐに嬉しさを隠しきれない表情をみせた。
「いいわね、行こう、行こう」
そして彼女はすぐに化粧台の前で支度を始めた。
僕はとびきり美味いパスタとワインがあるイタリアンレストランを予約した。
二人の思い出がいつまでも美しく残るように。
白ワイン 赤ワイン
それとも代わりに ロゼもどうだい?
お馴染みの店の
窓際の席に座ろうか
きみと僕
顔と顔を見合わせて
赤ワイン 白ワイン
きみが飲みたい方にするよ
きみが望めばいつだって会いに来る
僕たちのお決まりの場所
このイタリアン・レストランでね