短編小説:BLACK DEATHの煙(1)
一向に収束の兆しが見えないコロナウィルスによる災厄の中にあっても、いや災厄の中だからこそ人々は何かに幸福を感じようとする。
横浜港にほど近い川沿いにあるそのバーは10人も入ればいっぱいになってしまうカウンターだけの店で沙耶という40歳くらいの女が一人で店を仕切っている。沙耶の美しい顔立ちとサバサバとしたその性格が受けていて常時6~7人の客がいる古いジャズが心地よいマニアックな店だった。
このパンデミックな世の中に、まるで磁石に吸い寄せられる砂のように沙耶の店に集まるいつもの顔ぶれは、K、トランペッター、洋子、ジュリアで彼らは特に気と波長が合った。
昔は青線だったこの地域から特殊飲食店、平たく言えばチョンの間が行政の指導のもと(吐きそうになるフレーズだ)姿を消し小さなバーが軒を連ねるようになりマニアックな者たちが集まるようになった。
映画関係者、スタジオミュージシャン、女優、ストリッパーと言ってるが本当のところは本名も職業もわからない。
だがそんなことはどうでもいい。
海から生暖かい風が吹いてくるその地域、戦後はジャンキーの溜まり場だった。ドラッグが絡めば売春、暴力に流れていくのは必然的な流れで、その土地に染み付いた独特の雰囲気と匂いは自然に緊張感を高め酒を美味くするのだった。
全員が横浜の人間なためか海風の心地よさと開放感に包まれるとほっとし、すぐに仲間意識が芽生えるのだった。
店にあるテレビのモニターからニュースが流れ政府の人間と一体なんの仕事をしているのかわからない老人が悲痛な顔立ちで何か喋り出した。
この老人は医師であり官僚、國際公務員、独立行政法人の理事長といくつもの肩書きを持つが、常にネガティブなことしか言わないし人を絶望の淵に落とそうとすることしか言わない男だ。立派な肩書きが多い奴は胡散臭く信用できない、暗い言葉を連発するようならなおさらだ。この老人から希望というフレーズは全く感じられない。
「この爺さん、いつも泣きそうな顔して喋るよね」洋子がカクテルを飲みながら可笑しそうに笑った。
「今まであまり面白いことやらないでこの歳になっちゃったんだね」
そこにいる全員が笑った。
「面白いこと、そうだな。自分が本当にやりたいことをやってきていない人生を生きてきたのかもしれないな。この先、あまり長くないかもしれないがこのまま生きて、このまま死んでいくんだろう」Kが言った。
「女には絶対もてなかったよね」ジュリアが言うとまた全員が笑った。
「こういう男っていうのはさ、何かに耐えてることが好きなんだよ。いつも悩んだり我慢したりすることがやりたいことなんだ。そういう意味ではやりたいことをやってきた人生なんじゃないかな」
トランペッターがそう言うと妙に説得力があった。
「この爺さんにとっては女にもてたり贅沢をしたりすることは楽しいと思わないんだよ。いや本当はやってみたいと思ってるかもしれないが、まあ今まで縁がなかったんだな」
「例えばさ、俺もSNSで良く見かけるエセセレブパーティーなんかに出てワインを飲みながらカメラに向かってVサインするような人種は嫌いだけどな」Kがそう言うと
「あんなのはバカの極致よ。SNSは誰でもセレブになれるし評論家になれるからね。セレブになるのに資格試験なんかいらないから自分がそうだって言ったらそういうものなのよ」と洋子が言った。
「だいたい50過ぎのババアが多いよね。1980年代のバブル時代がどうしても忘れられない世代。男をパーティーの行き帰りの車代わりぐらいしか考えていない人種だね。」
「ああいうの見てると本当に吐き気がするな。いつかあいうパーティーにこっそり忍び込んで派手に爆竹でも鳴らしてやりたいな」
Kがそう言うと
「お前は中に入れなくて妬んでいるんだと思われるぞ。なんでも自分の都合のいいように考えるのがあいつらの特徴だからな」
とトランペッターが言いまた全員が笑った。
「緊急事態宣言の対象地域では、酒類やカラオケを提供する飲食店に休業を要請。重点措置の4府県も、飲食店に酒類の提供を行わないよう要請します」
ニュースの中でこの泣きそうな医師が言ったがこいつは昔小学生のころ何事においても段取りの悪いやたらと正論ばかり言う常に何かに耐えているような暗い表情をしている教頭がいたがそいつに似ている。
そこにいる全員が笑った。涙を流しながら笑っている奴もいた。
「こんな爺さんに言われてもな。誰も守らないだろう」
「沙耶、この店閉めるのか?」
Kが聞くと
「閉めるわけないわよ」と間髪いれずに言った。
「最初は店閉めるてたけどさ、だんだんアホらしくなってきて。だいたい政治や医師会の失態の尻拭いをなんでわたしたちがやんなきゃいけないのよ」
トランペッターがビールを飲みながらいった。
「そうだ。この2年近くこいつらは何やってたんだろうな。」
「なんにもやってないわよ。この爺さんの仲間や政治家も自粛に我慢できなくて銀座に飲みに行っちゃったからね」
「あー、本当のバカだ」ジュリアが言うと全員が笑った。
「新たな対策として、休業や時短の要請に応じた飲食店への協力金について、手元に早く届くよう先渡しできる仕組みを設け、、、」教頭の横にいた大臣が言うと
「去年からずっと申請してるけど1~2ヶ月分しかもらってないよ」沙耶が言った。
「そうなんだ。こいつ言ってて恥ずかしくなのかな、それとも忘れちゃったのかな」トランペッターが2本目のビールを注文しながら言った。
「禁酒法みたいだな」Kが言った。「禁酒法?」ジュリアが聞いた。
「今から100年ほど前の1920年1月、アメリカで憲法が修正されてアルコール飲料の醸造と販売は違法になったんだ。」
「なんでそんな法律ができたの?」ジュリアが美しい声で聞いた。
「酒は悪魔がもたらした最低な飲み物! この世に存在するべきではない!!と考える人がいてさ、そういう奴らが大勢になったんだ。当時ヨーロッパから来た増え続けた移民によって日常的に飲酒する下層民が増えてキリスト教道徳を守ろうという保守派の動きが大きくなったんだな」
「へえ、そんなことで酒が禁止になるのね?」ジュリアが美しいため息をつきながら聞いた。
「1920年の話だからね。日本は大正9年、株価大暴落が起きた年だよ。その2年後には蚊取り線香発売大ヒットして3年後には関東大震災が起きた年だ」
「香取線香ってそんな昔からあるのね」洋子が口をつけたカクテルグラスに口紅がついた。
「ヒトラーがナチス党首に就任したのは翌年だな」
「ある禁酒法に賛成の野球選手はさ「今夜、午前0時を回れば、新しい国が生まれます。正しい考えと好ましいマナーの時代が始まるのです。スラム街はすぐに過去の遺物になるでしょう。刑務所や少年院は空っぽになり、工場へ姿を変えます。男性たちは皆まっすぐに歩き、女性たちは皆ほほ笑み、子どもたちは皆笑い声を上げるでしょう。地獄の門は、永遠に閉ざされたのです」と群衆の前で言ったんだ。政府の職員たちが、大勢の目の前で蒸留酒とビールのケースを破壊したんだ。」
トランペッターは3本目のビールを頼んだ。
「そんなことして誰も反対しなかったの?」洋子が聞いた。
「推進派が大勢いたからね。そしてこれを「高貴な実験」と言って、全米の禁酒法支持者が称賛したんだ」
「暗い時代だったんだね。それでどうなったの?」洋子が言った。
「当たり前だけど酒を完全に撲滅することは難しく、秘密の酒場が繁昌し、密造酒が高額で売買された。そこに目を付けたギャング、シカゴのアル=カポネ-が大儲けしたんだよ」
「まあ、そうなるよね」洋子が言った。
「昔見た映画、アンタッチャブルの世界だね。あれはいい映画だった。世の中が暗くなってもユーモアで乗り切るやつは凄いよな。沙耶も大儲けすればいい。アル・カポネみたいに」Kがそういうと皆笑いながら頷いた。
沙耶はパッケージにドクロマークがデザインされたタバコBLACK DEATHに火をつけ煙を吐きながら微笑んだ。
今日も酒がうまいのはあの暗い顔をした教頭のおかげだ、と誰もが思った。正直で実直で下から上から常に文句を言われ続けてきた人間に共通のかわいそうな顔立ち、常に眉毛が下を向いている今にも泣きそうな顔立ちが同情を買うのかもしれない。
「感染状況が改善すれば、前倒しの宣言解除もあります。」教頭の隣にいた大臣が悲壮な顔立ちで言ったがもう誰も聞いていなかった。大臣というにはあまりにもカリスマ性がなく酒が不味くなりそうな顔立ちをしていたからだ。
「この間動画サイトで偶然見たアラスカの狐に似てるな」Kはニュースを横目で見ながら思った。