【2/7@東京外大】タカラヅカの中東・イスラーム【感想】

 過日、こんなイベント(?)の告知がX(twitter)のTLに流れて来ました。

 宝塚の薫陶を受けまくった小説(下記参照)を出すくらい、あの夢の世界に影響を受けた人生です。昨今のライト文芸の方向性のひとつとして、オリエンタリズムにも大いに興味があります。しかも会場は懐かしの母校! ということで行ってきました。



日本的オリエンタリズムについて

 前説的に説明された概念です。オリエンタリズムは、すなわち西洋から見た東洋へのふんわりとした憧れ、幻想、神秘化などであり、しばしば実際の各地域・各文化の差異や実情を無視して「オリエント」を「そういうもの」として一塊・一緒くたにしている面もあり、「『優れた』西洋文化が『劣った』東洋文化を上から目線でもてはやす」ような差別・偏見も含む概念でもあるとのこと。
 そしてそのオリエンタリズムが日本ではどうか、というと、紛れもなく自身も「東洋」の一角に位置しながら、西洋に寄って「東洋」を賞玩する意識があるのではないか、という指摘がありました。

 めちゃくちゃ心当たりあるな……。

 自分自身の姿勢としても、宝塚のお芝居やショーで取り扱われる「オリエント」への目線としても。異国情緒にときめきを感じるのは、すなわち見知らぬもの、自身に遠いものであるからのような。……と思っていたら、まさに「日本的オリエンタリズム」の表象のひとつとして宝塚を語ります、とのことでした。そしてなぜ宝塚と絡めるかと言うと、宝塚が好きだから✨ という宣言に笑顔になると同時に背筋が伸びたところで各研究者さんの発表に入りました。以下は、上記HPより演題と発表者さんを敬称略でコピペしてます。必死にメモを取りながら聞いてましたが、誤解や曲解があるかもしれないのはご容赦を。また、個人の感想も大いに入っています。


「宝塚歌劇で描かれた北アフリカ」黒田彩加(京都大学)

 本題とは全く関係ないんですが、「初観劇が荻田浩一先生のショーで」と仰っていたので「それはさぞ素晴らしい観劇体験だったでしょうね!!!」と心中で拳を握りました。オギーのショー素晴らしいよね……。
 言及した演目は「マラケシュ・紅の墓標」「愛と死のアラビア」「アルジェの男」など。
 共通して、現地の人々だけが登場する物語ではなく西洋人が主人公であったり、「アルジェの男」についてはほぼパリが舞台だったりと、「オリエント」「異国情緒」への興味を満たしつつ観客が感情移入しやすい西洋人の視点を設定しているのではないか、との指摘がありました。日本人の観客が西洋人主人公を身近に感じるのはまさに日本的オリエンタリズムの発露なのかなあという気もします。ベルばらはじめ、宝塚に洋物が多いのは皆お姫様や王子様やドレスやキラキラが好きだからであって、特段に西洋文化を高尚に見るとかいう話ではないだろう……とは思うのですが。

 プロローグで、西洋人であるはずの主人公がベドウィンや古代エジプト的な扮装で歌い踊るのはちょっと不思議ですよね、というお話もあり。「ヅカだからなあ」と思いつつ、「っぽいもの」を時代や場所関係なく詰め込む演出が問題を孕む可能性は(観劇中に気にしなくても良いかもしれないけど)頭の片隅に置いておいたほうが良いのかなあ、とも感じました。
 宗教や民族を超えた友情、多文化に理解のある主人公などを指して演出家の配慮と解釈するお話もありましたが、寛容だったり開明的だったり、「頑迷な他の奴らとは違う」ヒーロー像は普通に皆好むと思うので、観客受けを狙った・宝塚の主役として相応しい描写だからなのか配慮なのかは区別がつきづらいかも、とは。文化が交わる狭間の場所や時代だからそういう主人公が置きやすい、というのはあるのでしょうね。

 なお、「マラケシュ」でモロッコを「ファンタジーの異郷、異界」「地の果て」として描いている、という指摘もあったのですが、オリエンタリズムの発露と見るべきかいつものオギー節と見るべきかは区別が難しいのでは、とも思いました。
 「凍てついた明日」のテキサス州ダラス、「螺旋のオルフェ」のベルリン、「パッサージュ」のパリ──ある時代のある場所を象徴的に切り取って、現実と幻想が交錯したりしつつ、行き場のない人や訳ありの人が出会ったりすれ違ったり救われたり破局したりするのは荻田作品の持ち味であって、多くの観客に刺さったところであるはずなので……(私が特に好きな作品を挙げましたが、どれも欧米世界の都市でしたね)。モロッコだから、中東だからほかの荻田作品とどう違うのか、掘り下げて聞いてみたかったのですが、時間的に質疑応答の最後までいられなくて残念でした。


「宝塚歌劇におけるオリエント」濱中麻梨菜(東京大学大学院)

 主に「天は赤い河のほとり」を題材にしつつ、宝塚におけるマンガとのメディアミックスも交えたお話でした。「ベルばら」は2.5次元舞台の先駆け、という点も大いに頷きました。

 私は天は~の原作を見ないまま宝塚版を見ていたのですが、原作よりも
・戦いのシーンが強調されている
・ヒロインが古代に残る選択をするくだりで「平和な時代ではないけれど」という部分が強調されている
 ──つまり、平和な現代日本と戦乱の古代ヒッタイト、という対比がなされている、という指摘が興味深かったです。
 「宝塚歌劇で描かれた北アフリカ」でも、アイーダ原作の「王家に捧ぐ歌」が繰り返し再演されているのは華やかさや組子の出番の多さに加えて平和を訴えるテーマが宝塚に向いているからではないか(大意)……というお話がありましたが、思えばロマンスだけでなく平和の希求もとても宝塚的なテーマかもしれません。舞台の上でくらい、愛が平和をもたらすお話が見たいですよね……。
 一方、上述した通り、日本もオリエントの一角である以上、古代とはいえオリエント世界を完全に対比的なものとして描くのは「日本的オリエンタリズム」の発露といえるのかもしれません。そういった趣向の作品を特に疑問なくスッと楽しんでしまえることについて、観客側も自身の内部の目線、その位置を自覚すべきでは、というお話があったと思います。それはそう、本当にそう。

 また、原作者の篠原千絵先生が「古代ヒッタイトでは女性の地位が強かったと知って、少女マンガの題材にできると思った。国のナンバーツーをヒロインの目指すポジションにもできるし、敵役が今現在その地位にいるというのも良い」と仰っていたことがあるそうで。何となく、「中東(というかイスラムのイメージ?)は男性が強く女性は従属的な位置にあるから宝塚と相性が良いのでは」みたいなことを思っていたのは間違いだった──少なくとも時代や場所によるのね、と蒙を啓かれました。


「宝塚歌劇にみるペルシア」村山木乃実(日本学術振興会/東京大学)

 レジュメの自己紹介の欄に「・専門」「・趣味」等とならんで特に前置きなく・朝美絢とあるのが印象的でした。ご贔屓はもう項目立てやラベルも必要なく心の中に確固たる位置を占めていらっしゃる、分かる~~~。
 本題としては、レビューとはそもそも好奇の目で「野蛮」「未開」なアジアアフリカをまなざす西洋的なオリエンタリズムを踏襲している、という指摘の後、「シルクロード~盗賊と宝石~」を例に、「漠然としたイメージで把握するところのアラビア世界」が描かれているのが説明されていました。
 盗賊から「千夜一夜物語」(のアリババ?)を連想し、さらに本来はインド産であるホープダイヤを重ねてレビューを紡いでくのは、ここまでの話を聞くとやはりオリエンタリズムの表象なのかなあという感はありました。
 もう一作「金色の砂漠」に言及しつつ、ペルシア文学、特に「王書」の影響が見られるというお話もありました。タハミーネ、ギーブなどの人名からは、オタク的には田中芳樹『アルスラーン戦記』を想起しますね。あれもペルシアモチーフの物語でした。
 なお、物語の解説に、作中の登場人物名だけでなく「みりおさま演じる~」などと演じた生徒さんのお名前も挙げられていたところに愛を感じてにっこりしました。


「宝塚歌劇にみる中東世界と舞台化粧」香月恵美子(早稲田大学)

 宝塚における、ロマや中東系の役の表現としての「褐色メイク」がいつ頃から始まり、観客にどのように受容されていったのか、というお話でした。
 従来のソフト・ノーブル・紳士的な、西洋の貴公子的なイメージの男役とは対照をなす、野性味あるヒーロー像が「宝塚の男役像」のひとつとして受け入れられたのであり、必ずしも実在の「中東の男性」を忠実に再現しようとしたものではない、との指摘は観客目線では大いに頷くところでした。男役さんはそういう綺麗な存在・ファンタジーであってリアル・リアリティはまた別の話……。もちろん、外から見た時にステレオタイピングな表現として批判の対象になり得るのも分かるのですけれどね。

 質問するタイミングを逃してしまって残念だったのですが、男役の「褐色メイク」が1960年代から定着したというお話に対して、娘役はどうだったのか気になるところでした。褐色ヒロインでパッと思いつくカルメンやアイーダは、気が強く自立していて宝塚のステレオタイプなイメージである「お淑やかなヒロイン」とは一線を画するので、男役よりも受容に時間がかかったりしたのでしょうか。
 とりあえず、「ノバ・ボサ・ノバ」の初演が1971年なので、その時には娘役の褐色メイクがあったのは確かだろうと思うのですが、この作品もトップ娘役の役どころは白人女性なので、メインヒロインの褐色解禁はまた別なのかな……? とも思うのですよね。(「ワイルドな」現地ヒーロー×白人ヒロインの組み合わせはハーレクインの文脈なのでしょうね、たぶん)
 まあ、ヨーロッパのプリンセス(皇后)でありながら我の強さでは他の追随を許さないエリザベートも、日本初演から三十年近く経っている訳で。衣装やメイク、外見的な表現からヒロイン像のキャラクターや多様性を考えるのも時代遅れな感じはあるかもしれません。
 
 本題からは逸れますが、質疑応答での「褐色メイク」はブラックフェイスと同一視されて問題にならないのか、という質問に対する回答に関連して、ラテン種目などで肌を黒く塗るのもブラックフェイスの一環として議論の対象になる、というお話、競技ダンスをやったことがある者としては興味深かったです(私がやってた時はいわゆるドーランではなく、セルフタンニングローションという、塗るというより肌を染めるやつでしたが)。意識してなかったけどそう言われればそうなる、のかな……。
 特定の人種を模倣するというよりは、筋肉を美しく見せるためなので一概に差別の文脈で語れないのでは、というようなお話だったと思うのですが、経験者的には「強そうに見えるから」だと思ってたので、筋肉を美しく~のほうがちゃんとした言語化だな……と思いました。これは完全に余談。

まとめ感想

 詳しい人が熱く語る様を見るのは楽しいもので、しかもテーマが好きな宝塚✨となればいっそう楽しいのは当然でした。扱われた作品は未見のものも多かったですが、この先見る機会が巡ってきた時、また、今後中東を扱った作品を見る時の楽しみ方も幅が広がったであろうと思います。充実した一時でした。

 遠い異文化を美化したり(ともすれば勝手な)憧れを抱くオリエンタリズム、それに類する視点は自分自身としても重々心当たりがあり、創作に当たっては気をつけないといけないな、と改めて自戒もしました。
 明治時代のドイツ人貴公子×日本の華族令嬢を描いた『呪い子と銀狼の円舞曲』では西洋礼賛にならないように気をつけたり、現在公募の結果待ちの「ミュンヘン留学中の森鴎外(林太郎)が主人公」のお話では、当時の日本人は普通に差別や好奇の視線の対象だぞ、という部分に触れたり、なるべくフラットだったり当事者目線での描写を心掛けてはいるのですが。
 物語として美味しかったり王道だったりする要素も、現代の感覚に照らせば相応の配慮が必要になることもあり得るでしょうから、色々な視点・分野からのお話を聞けたという点でも貴重な機会だったと思います。 

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悠井すみれ
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