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秋の独り言
幼い頃、長生きをすることが幸せだと思っていた。
早逝する著名人のニュースが話題になる度に、「まだこれからなのにね」と惜しげに呟いた大人の姿が印象に残っているからかもしれない。
「生きているだけで偉いんだよ」と慈しみ育ててくれた両親が、これから先の人生は当たり前に明るいのだと信じさせてくれたからかもしれない。
自己肯定感が高く、何事にも自信がある。
自分の伸び代と、周りにいる人の善良さを、ピュアに信じている。
「タイムマシンがあったら、過去と未来とどちらに行きたい?」というよくある質問に、迷わず「未来!」と答える。
そんな子どもだった。
最近、別に長く生きなくても良いな、と思うようになった。
何か辛いことがあったとか、人生に絶望したとか、そういうターニングポイントがあった訳では全くない。今でも自分は人生を器用に楽しんでいる方だと思っている。叶えたい夢もそれなりにあって、それに向けて努力をしている。
ただ、今手にしている健康な魂は、名も知らぬ誰かが死ぬほど欲しかった命なのだから粗末にするな、という考え方に、昔より共感できなくなった。自分の成長や周りの優しさを、過剰に信じたいと思わなくなった。
タイムマシンでは、過去に行きたくなった。
そんなぼんやりとした価値観の変化である。
…
太く長く生きた方が良いに決まっている、と言い切ることができる人間は、とても強いと思う。
けれど私は、その言葉の隙に微かに見え隠れする何ともお綺麗な表現に対して、違和感を抱いてしまうになった。
綺麗事、なんて言葉を知らなかった私が、仮面を被ることを覚え、拙いながら卒のない表現を追求しはじめ、大切な人たちと出会って別れて、人間の悪意が生み出す凄惨なニュースを目にして、22年を生きた。
そんな日常の中で、無意識のうちにじわりじわりと、どこか穿った見方で、達観的な、厭世的な感覚を、自分を守るために身に付けてきたのだと思う。
名前の通り光り輝く自信に満ちていた10代を超えて、少しばかり暗い人間になってしまった。
屈託なく長生きをしたいと言っていた幼少期の私が今の私を見たら、何を思うだろうか。
…
けれど私は、そんな自分の変化にとても肯定的だ。なぜなら、感情や感覚といった、人を人たらしめるものの正負は、常に表裏一体だと考えるからだ。
影が濃くなるほど光も眩しくなっていく。つまり、負の感覚が生まれるほど豊かな感覚も生まれ、日々、そのアウフヘーベンが人としての成熟をもたらしているのだ。
そんな綺麗事を、最近少しずつ信じられるようになってきた。
なぜなら、私は知っている。
差別と対立で溢れる世界と闘う強さを持つ人間を、名も顔も知らぬ人が生きる未来のために自らを粉にして働く人間を、見返りを求めずにはち切れんばかりの愛を注ぐ優しさに溢れた人間を。
ありとあらゆる綺麗な色を載せたパレットのような空の色を、深い緑の奥で濡れた目を光らせる生物の息遣いを、あたたかい太陽の匂いとナイフのような三日月が灯るしんとした夜を。
人生は夢だらけだと歌い上げる椎名林檎に、行き着く場所はたった一つだと呟く藤井風に、強くなれ僕の同志よと肩を叩く深瀬慧に、直感的に惹かれて涙する感情を。
私はまだ、日々の数えきれない幸せな瞬間に気付くことのできる人間であることを。人生が長くなくとも、今はまだ死にたくない、と思える人間であることを。
だから、この感覚は、私が人として成長している証であることを。
…
つらつらぐるぐるゆらゆらと、何ともまとまりのないことばかり考える日々だけれど、ロジカルさの欠片もない着地点のない話を愛おしく思えるように、今日は久しぶりに、こんな文章を落としておくことにする。
天真爛漫で四方にエネルギーを発散させていた時代を超えて、少しずつ「影」との付き合い方を学んでいく20代にしよう。
ギリシャやエジプトで浴びた灼熱の太陽や、じんわりと汗ばむ東京の人いきれから、ようやく抜け出してきたような、トレンチコートを掻き合せて日の短さにふと気付くような、そんな秋の始まりにて。