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冬の記憶

青い草木に囲まれた道の先に見えた、きらきらとした海の光。挽き立ての珈琲と飲みかけのビール、物静かな音楽家の優しい笑顔と燻製の香ばしい匂い。彼が触れた鍵盤からは、ころころとした宝石のような粒揃いの音霊が零れ落ちる。楽譜立てに置かれた眼鏡は、海を反射している。

身体を伝う心地よい汗と、世界を抱えきれない愛で慈しむ人の、あたたかい言葉。マフラーをぐるぐると巻いても震えて上手く話せなかった夜、頭上には雲の切れ間に、凍えそうな星空。ベールのように街を包み込んだ霧雨を吸い込んで僅かに香る、早すぎる春の緑の匂い。

忙しなく行き交う人々を横目に一人で佇んだバス停の、無機質な青。何度もカチカチと音を鳴らさなければ火がつかなかったビビアンのライター。明け方のひんやりとした空と、紙煙草のツンとした臭み。目が見えない長さの汚い前髪とつけすぎたソバージュに、思わず顔を顰めていた。人工的な音と光の世界に浮かび上がる輪郭。波に飲まれた心は、驚くほど影を潜めている。

人のいないオフィス。昼でも暗く、しんとした静けさに、自分だけが立てる音が響く。目の前の文字列が、ぼんやりと意味を為さなくなる。ぱちんと泡が弾ける。慌ててデリートボタンを連打する、カチカチとした不規則な音。溜め息をついて手を伸ばした先には、冷め切った珈琲の苦味。

眠い目を擦り、絞り出した気合いで乗り込む満員電車。目の前で化粧をする若い女性の、使い込んだパレットのラメが、朝の光をきらりと反射する。Marshallのヘッドフォンを付けて、走馬灯のごとく駆け巡る急行列車の車窓を、ぼんやりと眺める男性の優しい目。滑り込んだ駅舎に枝垂れる木々は、白っぽく茶けていて生気がない。けれども、今にも折れそうなその身体は、やがて来る春の息吹をひそやかに抱いているのだ。

薄いハイボールに口をつけて、うっすらと浮かべた笑顔と、隠しきれない目元の光。祈るような歌声は、普段は見えない柔らかい部分に容赦なく零れ落ちて、ざらりとした塊を残す。目を背けてベールを掛け直す。スターバックスの狭いテーブルの向こうで、あなたには芯があると言った上司の、真っ直ぐな瞳。何年も使い込んだはずのベールの色が分からなくなる。

脳が情報で溢れて、もうそろそろ処理しきれなくなると感じた夜。筆を取ろうと何気なく開けた引出しに、22年間に貰った手紙を仕舞い込んだ箱が見えた。ゆっくりと蓋を開けて、上から順に、丁寧に言葉を噛み締めていく。消えかけていた蝋燭の光がゆらゆらと優しく灯る。いつのまにか深い眠りに落ちていた。

病み上がり、全力で走っていたら息が苦しくなり、涙目で思わず見上げた空に上がった大輪の花。とっぷりと陽が落ちた冬の空に、砂のように細かく光が散っていく。目で見ると白っぽく眩しい砂のかけらは、カメラで捉えると絵画のように色鮮やかであることを知ったのは、高校生の夏だった。

ヘッドフォンの中に閉じこもってばかりでは、心の輪郭がじわりと滲んでしまう。
ありのままの瞬間の感覚を、丁寧に丁寧に、一粒ずつ拾い集めていく。

最近の記憶、日記代わり。

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