諦念半端人間
何をしても1番になれない
もっとすごい人間はたくさんいる
そう諦めてしまう
趣味と評価に対する負の感情
小さい頃からいろんなことを試してやってきて、少しずつ好きなものを自覚して認知しながら生きてきた。
好きなものはたくさんある。
趣味がたくさんあるのはいいことだ。
趣味を同じくする人との会話は楽しいし、話を聞いて新しく発見があったりする。
素直に、みんなすごいな、と思うが、同時に羨ましい、妬ましい、とも思ってしまう。
どうしても憧れや称賛に嫉妬がついてまわる。
自分だけがこう思っているのかと不安になる。
好きなものへの努力
なにかに打ち込めたり没頭したり、あるいはひとつの趣味が大きく抜きん出て優れている人は才能にあふれており、周りからも評価を得ている。
その人が優れているのはその趣味に向き合ってきた過去があるからなのだが、自分の過去に自信が持てず、他人の芝の青さを羨んでいる。
努力をすれば解決するかに思えるが、努力も才能なのだ。
中学では、3年間ソフトテニスをやっていたが、どんなに練習してもある程度からてんで上手にならない。
試合でうまく立ち回れないで右往左往して負けてしまうような具合だった。
それまでは、水泳もそろばんも、やればやるだけ上手になり、努力が結果に結び付くものだった。
なにかを極めるにも努力に限界があることを痛感した。
努力をするのにも際限があり、自分のなにに注ぎ込むのかは自分で選択しなければならない。
趣味、やりたいこと、好きなものがたくさんあることが、私の価値を薄めているのかもしれない。
いいねに依存する私の価値観
最近、TwitterなどSNSで色々な人を知ることができるようになって、絶望感が増した。
好きなものを認められる人をたくさん見てしまうのだ。
アクティブで人脈がある人は簡単にいいねがつく。
人気のあるコンテンツに乗っかってもいいねがつく。
いいね=評価ではないのだが、努力をしているようにも優れているようにも見えないものでもその人やコンテンツの人気が可視化されてしまう残酷さが目立つ。
後輩のSNSのいいねの数が私の心に傷を作る。
すごい人の閲覧数やいいねを知ってまだまだだと諦めが強まる。
見えてしまう。
努力したぶんだけいいねがつくわけではない。
インターネットの広さ
SNSでは、もちろんたくさんの人と知りあうことで楽しい時間を共有する楽しみが増えてはいる。
だが本好きや映画好き、ビールを愛する人の話を聞くと、自分は全然大したことない…と殴られた気分になる。
ある程度得意だと思っていた分野や、好きでよく知っている、たくさん観賞した、と思っていた自分が、全然大したことのなかったのだと目を覚まされることが増えた。
クラスで一番だったけど、インターネットでは全然、という人は多いのではないか。
あのときは、周りの人のなかで一番だったのに。
インターネットに、膨大な情報に、匿名の多数に、自分は大したことのない一番などにはなれない存在で、特別おもしろくも詳しくもない中途半端な存在であることを断じられる。
自分は大したことがない、ダメな人間だ、時間があるのにもっとうまく使うべきだった、と後悔し。
どうしようもできない環境が悪かった、もっとできるはずなのに、と開き直り。
あの人はできる環境にいる、持てる者だ、と妬む。
眩しい他者の評価を妬む。
自分も評価が欲しい。
でも、そんな評価のために好きなことをやっている訳じゃない。
多趣味なことは自己の価値を下げるのか
一度、後ろ向きに前を向いてみる。
なんだかんだ言ってはいるが、
中途半端な多趣味な人間としては守備範囲の広さを誇れる気がしている。
色々な人と話すときに、話題を提供したり、話を合わせたりできる。
ひとつに絞れない優柔不断さの賜物。
全く同じものを観賞している人間はいない。
感想も人それぞれなのだから、それを発信することが大事な気がしている。
このnoteを書くときも、(言語化するという目的はあるが) 楽しい趣味として、そしておもしろいと思ってもらえる文章を多少なりとも書こうとしている。
書くことは結構楽しいと思っている。
だがこうやって色々なものに手を出し、それぞれに手を尽くそうとするほど、自分の好きなものが一つのものに定まらず、私の価値が薄まっていくのではないか。
結局頭の中は、「私の価値があがらない限り、もっとすごい人はたくさんいるし、一番にはなれない。」
という、結論に至ってしまう。
人の評価を覗き見てはすごい人を見て嫉妬する。
自分に幻滅する。
評価を得られること
逆に言えば誰もがそうだろうが、
評価や反応が得られるだけで、救われる。
映画を見て本を読んで、感想を言い合える対等さを感じられるだけでもいい。
noteなら、読んでるよ!という声が聞けるだけで結構嬉しかったりする。
反応が無いのが一番つらい。
おもしろくなかったり微妙だったらそう言ってくれたら嬉しい。
最後に
皆に評価を少しでもして欲しいとは思っているが、これは他者の行動なので、自分がなにをすべきか、ということについてなのだが。
私は評価を得られるまで一つのものを極める努力するか、諦観を得るしかないのかもしれない。
そして、大前提として、SNSで見ない方がいいものを見てしまって気にする人は、そもそもSNSは向いてない。
見なければ悩みもしないのだ。
最後に、こんなところで負の感情を吐露することについて、鳴かぬ蛍が身を焦がす、とは言うけれども、言わないことで無かったことになる感情たちのことを無かったことにできず、私は愛しているから、書いてしまいました。
おやすみなさい。
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