novel「旅」①
1.
長い間、ほんとうに長い間、この列車に乗っている。一〇時間か、それとも一〇〇年間だろうか。
わたしの肩にもたれて眠る彼は、乗車したときは声がまだ高かった。彼の手を引いて、ふたりぶんの切符を買った。コンパートメントに落ち着くなり、この子が甘いココアをねだったのを、昨日のことのように覚えている。マシュマロを浮かべた、幸福な糧を。
あれから、いくつもの昼と夜と夜明けをこの列車で過ごした。曜日の感覚は失われて久しい。
深緑の布が張られた座席に座り、右肩に彼の頭の重みを受けて、左の頬には残照を浴びている。列車は、川沿いを走っていた。水面に乱反射する、トパーズに似た陽のかけら。短い夏がはじまるのだ。
彼を起こさないように用心しながら、テーブルに置かれたグラスに手を伸ばす。彼のグラスは空で、傾けると、一滴だけ残っていた琥珀色の液体が流れた。口をつけるとそれは、生のままのブランデーだった。舌を焼かれ、思わず肩がこわばる。彼が目を覚ます気配がした。
ゆっくりと目覚める彼のまなざしは、蝶の羽化を思わせる。瞳にやわらかなひかりを宿らせて、彼は微笑んだ。
「…リザ、」
いつの間に、こんな、強い酒をのむようになったのだろう。いつの間にこんな、低い深い声でわたしの名を呼ぶようになったのだろう。
ミネラルウォーターの栓を抜き、新しいグラスに注いで彼に差し出す。ゆっくりと飲むその様子だけが、昔の彼のなごりをとどめている。
「もう、夜なんだね」
わたしは無言のまま、彼の声を味わう。陽は落ちて、車窓からは、遠く街の明かりが見えていた。
彼は、そっとわたしの頬にキスをした。そのまま、くちびるをふさぐ。
この子は……いつの間に母の乳房を吸うようにして、わたしの舌を吸うようになったのだろう。わたしはくちびると視線を外して車窓を見る。硝子に映る彼は、もう、子どもではない。
その、彼のポートレートが、ふいに外からのひかりにかき消された。駅に着いたのだ。ドアが開くが、降りる人はまばらだ。その代わりに軽食を売る商人たちが乗ってきた。
彼は軽食売りの少女から、ブランデーの小瓶と果実、ナッツを買った。それから、美しい紙箱に入ったボンボンを。わたしはサンドウィッチをふたつ求めた。銀貨を数枚、少女に渡す。少女は目だけで微笑して、次の車両へと向かって行った。
ボンボンの箱のデザインが気になって、わたしは彼の手元をまじまじと見る。
「気になる?」
彼は悪戯気に笑って、わたしに小箱を差し出した。わたしは両てのひらでそれを包むようにして受け取る。
立方体の小箱はアクアグリーンで、ふちどりは白と金との唐草模様だった。上面には、風船にじゃれつく仔猫の影絵があしらわれている。
「きれい」
見とれているわたしに彼は云う、
「賭けをしようか」。
きょとんとして彼の目を見る。
「それ、おまけ入りなんだ。ボンボンと一緒に、ちょっとしゃれた玩具が入っている。ネクタイピンだとか、イヤリングだとか、ラッキーチャームだとか。あくまで子ども向けだけれどね」
自分の瞳が輝くのがはっきり解った。もう一度、小箱を凝視する。
彼はわたしの手からそれを取り上げて、封に手をかけた。
「玩具が男ものなら、降りる駅は僕が決める。女ものなら、あなたの望むようにする」
異存はない。わたしはゆったりとうなずいた。
to be continued
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