一生飽きないこと
本を読むのが好きだ。文章がなかったら、誇張なしで今の私はここにいない。
小学生の時は毎日暇だったので、学校から帰ってランドセルを置くとすぐ本を開いた。本棚は畳の部屋にあり、右のすみっこで静かに鎮座していた。大きな窓を背にして本棚の端に陣取り、ページを開く。始まっていくお話に、しずかに息を詰める。
リビングから死角になるその場所は、絶好の読書スポットだった。とても気に入っていたので、親は私が見つからないと必ずそこを探した。たいてい、ちゃんとそこで背を丸くして、本を読んでいたらしい。
中学生になってからは、図書室や学校、部活の合間、とどこでだって読むようになった。彼氏は誕生日に本をプレゼントしてくれた。いい文章があるたびに誰彼構わず捕まえてしゃべっていた。そのくせ、国語の時間は大嫌いで、なんで物語に意味を持たせようとするんだろうとイライラしていた。好きな読み方をすればいいのに。問題になんか使うために書かれてるんじゃないのに。私はよく、国語の時間に暇をして、物語を書いていた。ノートにびっしり。驚くくらいたくさん。今も残っているが、読み返すとかなり上手い。自分の文章が好きだなあとしみじみするのは、こういう時だ。
高校は、知らない世界をたくさん見た。特に、残酷なお話や大人の恋愛に酔いしれた。絶対に今までの自分なら目を背けたであろう生々しい世界。人間らしく、汚らしく、ちゃんと愛がある。外国文学の冴え切ったきれいな表現ばかりを吸い込んでいた私にとって、それは革命としか言えなかった。いわば麻薬みたいなもので、私はふらふらしながら、よく1960年代ごろにトリップしたものだ。
そして、小さな頃から本を読み続けていて、弊害になっていることがひとつだけある。それは、想像力が豊かすぎるってことだ。いいことじゃないかと言われるけれど、これはかなり足枷だ。なんでかって、文章を追いかけていると、その景色がありありと脳内に浮かぶ。それがなんてったって鮮明で、ずぶずぶと物語にはまっていくうちに、現実との境目が曖昧になる。手を伸ばしても靄みたいで掴めない、文章の中の世界。それなのに嫌ってくらい細部まで想像してしまう。物語の中に落ち込めば落ち込むほど、読み終わった時にこちら側に戻ってくるのが大変になる。最悪、数日間ぼーっとしたまま、夢心地で過ごすことになる。
想像力が豊かすぎるっていうのも、問題だ。起きたまま夢を見てるようなもんなんだから、余計に。
そして今。大学生になって、最近は本を電車で読む。あと、図書館でも、自分の部屋でも。しかし、一番気に入っているのは、階段で読むことだ。階段のどこでもいいから一段に腰掛けて、ぱらっと捲る瞬間。部屋でもなく、特別でもない「階段」という場所が、とたんに物語の入り口になる。それが面白くて、つい本を持って階段に座ってしまう。
あと、夏だから部屋より廊下の方が涼しいような気がするのもひとつ。階段は廊下よりももっと涼しく思えるのだ。フローリングから伝わる冷たさが、私の身体をじんわりと快い温度に保つ。その心地よさに身を委ね、たった一段という小さな空間で足を折り曲げて本を読むのは、形容し難い幸福である。
2023,7/18
追記
夏なので江國香織さんの「すいかの匂い」を読み直す。首筋がぞわっとして、怖いというのと懐かしいというのとが同時に襲いかかってくる不思議な短編。かたつむりのやつが一番怖かった。最も好きな話は「弟」ってやつだ。私も夏に死にたいな。
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