古傷 (1)
会社の帰りに駅前のスーパーに寄った。
晩酌用の缶ビールでも買おうと思って、生鮮食品の前を通り過ぎたとき、見覚えのある顔に視線が釘付けになった。
女の方も、おれの顔を見て驚いた表情になった。
「真由美…」
小さくおれは呼びかけたが、彼女は踵(きびす)を返して立ち去ろうとした。
おれは、衝動的に彼女を追いかけ…といっても三歩ほど近づいてその肩に触れた。
「待ってくれ」
「やめて…」
「少し、話さないか?」
昔から、穏やかな女性だった。
声を荒らげることもなく、真由美は振り向いてくれた。
おれはカゴにビールを、彼女は総菜だろうか、寿司などを入れたかごを下げていた。
無言で、おれたちはレジに向かい買物を終えて店を出た。
17時半…家内を施設に迎えに行かねばならないので、あまり時間は取れなかった。
それでも、真由美と話したいことは山ほどあった。
あの頃のことが、さまざまに思い出されてきて、おれは何から話したらいいのかとまどっていた。
駅前通りを歩きながら、おれから話しかけた。
「ほんと、ひさしぶりだね」「ええ」「あのときは、申し訳なかった…まず、お詫びしたい」
しばらく沈黙があって、彼女は鼻をすするような音を立てた。泣いている。
「ごめん…まゆみ」
「いまさら…あたし、この歳まで結婚しなかった…母さんが亡くなった…ずっと一人ぼっちだった…」
とつとつと、真由美は語り出した。
真由美は、お母さんっ子で、母子二人で暮らしていた。
おれは、彼女と社内で付き合っていた当時から、会えば母親のことばかり話すので、「親離れのできない女だな」と思いつつ、それだけが原因ではないものの、だんだんに二人の仲がぎくしゃくしだしていたのだった。
そうして、仕事もつまらなくなっていたおれは会社を辞め、今の勤め先に変わっていった。
「まゆみ、おれもさ、結婚したけど、家内が脳溢血で倒れてさ、今は介護の毎日なんだ」
「そうなの…大変ね」
おれが、真由美を振って、五歳も年上の須磨子と結婚したことは知っているはずだった。
直接話してはいないが、当時の会社の同僚たちから、真由美の耳に入っているはずだった。
真由美の母親が乳がんで亡くなったのも、おれは風の便りで知っていた。
「おれも今年で五十七だぜ」
「あたし、五十三になる」
「もうすぐ誕生日だね」
「覚えてるの?」
「十一月八日だったよね」
真由美は、嗚咽を漏らした。
おれは、やさしく肩を抱いた。
家内が、寝たきりになり、高次脳機能障害で意思疎通も危うくなっている状況が九年も続いている。
その間、おれは女体に触れたことはなかった。
もちろん、介護で妻の体を洗ったりはしているが、性的なものは感じたことがなかった。
しかし、真由美の中年を過ぎたとはいえ、豊かな未婚の体を感じると、急に熾火がいこるように性器がみなぎりだした。
あの頃、おれの賃貸マンションの一室で激しく交わったことを思い出させた。
真由美の体臭が、鮮やかに脳裏に映像をよみがえらせた。
おれは人の目を気にしながら、真由美の髪に鼻を押し当てて匂いを嗅いだ。
「やめて…おかしくなるから」
「また、付き合わないか?」
「なに言ってるの。たかしくん。奥さんいるんでしょ?」
そう言って体を振りほどく。
往来であるから、あまり変なことはできなかった。
夕間暮れの住宅街の路地は、人気もなく、小さな児童公園にさしかかる。
おれは真由美の腰に手を回して、公園にいざない、塗装の禿げたベンチに座らせた。
「もう、家内はおれのこと、あまりわからないみたいなんだ」
「だからって…」
「まゆみは、付き合っている人いるのかい?」
「いない。男の人を信じられないの」
「おれのせい?」
「だと思う…」
秋も深まりつつあり、あたりは寒々としていた。
枯れ葉が、かさこそと足元を転がる。
「また、会ってくれないか?」
「奥さんの代わりがほしいの?」
「正直、そうかもしれない」
「じゃあ、出会い系でさがせばいいじゃない。わたしは、遊ばれたくない」
きっぱりと、真由美は言った。
「…そうだな、こんなことを頼めるのは、真由美だけだから…」
「おたがい、さみしいよね」
そう、しんみりと真由美が答えた。
膝の上のレジ袋が微風に揺れている。
街灯が点いた。
「やっぱり、会わない方がいいか…」
おれは、あきらめることにし、立ち上がろうとした。
すると、真由美がおれのスーツの裾を引っ張ったのだ。
「会ってほしい…」
真由美は小さくそう言った。
「いいのか?」おれは坐りなおした。
「奥さんには、もうバレないんだよね」
のぞき込むように、真由美がおれを見つめる。
「ああ、あいつはもう認知機能がかなり低下してるんだ」
「そうなの…かわいそうに」
「だから、おれだって辛いんだよ。真由美になら、うちあけられる」
「あたしだって、さみしい」
二人の秘密の合意がなされた瞬間だった。
また逢う日を約束して、メアドを交換し、おれたちは、別々の方向に歩き出した。