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私、気づいたんです。

先週から夫が尿路感染症で入院しています。
このコロナの時期に救急で入りました。発熱していたんですね。
放っておくと命にかかわるそうです。
抗生物質投与で様子を見るということで退院のめどがまだ立ちません。

夫が片麻痺になって、はや十一年が過ぎ、介護生活に、私も疲れて愚痴をこぼすことも増えました。
彼も、聡明な人間でしたが、このごろは簡単な言葉しか発せず会話らしい会話もできなくなっていました。

私の勤めていた会社もなくなって、収入の当てが無くなり、自分で稼ぐしかない今、ふと見えてきたことがあります。

「私は間違ってなんかいなかった。正解の道を歩いてきたんだ」という確信を得たのです。

それまでは「私は、この人と結婚して、失敗した」なんて本気で思うようになっていたんです。
心がどんどん、すさんでいくんです。わかっているのに、ひどいことを思ってしまう。
「あんたなんか、死んじまえ」と喉まで出かかって、何度も飲み込みました。

転機は『いのちの初夜』(北條民雄)という本であり、『長崎の鐘』(永井隆)という本との出会いです。

もし夫が、遊び惚けていた私に求婚してこなかったら…
彼は独身のまま、同じように脳出血で倒れ、半身麻痺になって独りぼっちになっていたら…だれも世話をする人もおらず、老いた彼の母親と、遠くに住む妹が、おそらく世話をするのだろうとは、想像にかたくない。

しかし、お母さんは老齢で無理だし、妹さんにも人生があるでしょう?
私がいることで、私だけが彼の世話ができることで、義母さんも、妹さんも安心できている。

そうだ、私の存在が誰かを幸せにしている。
それに、子供に戻ってしまったような夫だって健康不安はあるにしても、私がついているから今日も無邪気に手を振ってくれたじゃないか?
コロナのせいで、面会はガラス越しでしか許されず、このまま二度と生きて手を取り合うことがないのではとまで考えさせられました。昨年亡くなった義父さんと義母さんがそうだったように。

これを「正解」と言わずして、なんとする?
私は、人のために生きている。
私が、もし介護を放擲(ほうてき)してしまったら、どこかのだれかが彼の世話をするのだろう。
ケアマネたちが奔走してなんとか夫の人権を守ろうとするに違いない。
そうするとね、回りまわって、いろんな人の手を煩わせ、社会がひずんでいく。
大げさだけど、大谷翔平君がメジャーで活躍できなくなるかもしれないし、阪神タイガースが今年優勝できなくなるかもしれない。

今、介護できる人が、介護すること。
与えられたポジションを守ることでチームが力を発揮できるのはリトルリーグで学んだことだった。
誰かが抜けると、やりたいポジションなら引く手あまただけど、人気のないポジションは欠員のままだ。
そんなチームでは勝てやしない。

おりしもコロナでエッセンシャルワーカーに欠員が出始めている。
このままでは、社会は梗塞状態に陥ってしまうだろう。

だからというわけではないが、私は、夫を介護することは「正解」だと気づいたんです。
私はそのために選ばれた人間なのだと。
私に与えられた仕事は彼の世話をすることなのだと。
全幅の信頼を得ている私にしかできないことなのだと。

さあ、早く退院して、帰ってきてよ。
あんたがいないと、よく眠れるけど、やっぱ、さみしいやん。
独りでご飯を食べても、おいしくないから、食べない時もあるんだよ。
独りだと「もういいや」と、簡単に捨て鉢になるんだ。
猫でもいればがんばるけれど、あいつも先に逝っちまった。
人を大切に思わないと、自分にも粗末になることに、この歳で気づいたよ。

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