『七里ヶ浜』宮内寒彌
私は以前に「三角錫子と中学生の恋」というタイトルでブログに記事を書いたことがあった。
http://vcrmnfeconi-wawabubu.blog.jp/archives/1072065509.html
その元となった文献が『七里ヶ浜』(宮内寒彌:新潮社)である。
かなり古い本(昭和53年刊)で、文庫にもなっていないので、現在では入手はほぼ不可能かもしれない。
古書店をつぶさに調べれば見つかるかもしれない。
前の記事にも書いたが、逗子開成中学の学生数人が無断でカッター(手漕ぎボート)「箱根号」を持ち出して厳寒の海に「鳥撃ち」を目的として繰り出し、江ノ島方面に向かっての帰途、七里ヶ浜沖合で転覆し乗船者全員が死亡した事故があり、その顛末が本書に詳細に記されている。
三角錫子(みすみすずこ)という当時、鎌倉女学校の数学教諭と逗子開成中学の生徒とどういう関係があったのか不明な点があるものの、彼女が、遭難生徒の合同葬儀において、「鎌女」の生徒を伴って、「七里ヶ浜の歌(哀歌)」を作詞し、賛美歌の「園の歌」もしくは、唱歌「夢の外(ほか)」の曲に乗せた「替え歌」を斉唱したことが伝わっている。
この「七里ヶ浜の哀歌」は歌い出しの歌詞から「真白き富士の嶺(ね)」(「嶺」は「ね」とは読まないが、三角が「根」のつもりで「嶺」を用いたとされる)と呼ばれて親しまれてきた。
そこで、うわさされたのが、亡くなった逗子開成中学の年長生(五年生、享年二十一歳)だった木下三郎と錫子の関係だった。
亡くなった生徒の中に、錫子と親密な関係の者がいたらしいことがささやかれており、だからこそ、この鎮魂歌を切々と作詞したのだろうと。…
錫子は当時、三十八歳ぐらいだったとされる。
もちろん独身で、各地の学校を転々として勤務し、数人の弟たちの学費を捻出していた。噂では、教師の仕事に打ち込んで婚期を逸していたのだろうとされている。
また勤務地を転々とした理由は、弟たちの学費を稼ぐために、より待遇の良い職場を求めてのことだったようだ。
ところが、無理がたたって、錫子は胸を病む。
肺病は当時、死病であったから、もはや結婚など望むべくもなかったのだった。
それでも教育者として、さらに奉職したい気持ちは強く、周りの勧めもあって鎌倉に転地療養をするのである。
そこで恢復(かいふく)に向かいつつあった錫子は、幸いにも現地の鎌倉女学校に職を得ていたのだった。
そんな中で、同地にあった全寮制の逗子開成中学の男子生徒と錫子との交流が育まれていった。
錫子は弟のように、木下たちに勉強を教えたり、遊んだりしていたようで、土地の人々にもその姿は知られていたようである。
しかし、男女の関係にまで進んでいたとは、だれも思わなかっただろう。
歳の差がありすぎるからだ。
一方で、木下三郎とは、どんな学生だったのだろうか?
詳細は不明だが、逗子開成中学といえば、東京の開成中学の兄弟校であり、名門校には違いない。
木下は水泳が得意で、だから溺れて、瀕死の状態で見つかり、人工呼吸もむなしく息を引き取ってしまったのは、正月の海が、よほど海水が冷たかったために体力を奪われたのだろうと推察される。
もっとも、ほかのだれもが、皆水死の状態で見つかっているのに、木下だけは、しばらくは息をつないでいたのだから、水練の達者な若者であることには違いなかった。
木下は、リーダー格で、男気のある好男子だったとされる。
そんな若く逞(たくま)しい木下に、オールドミスの処女、錫子が心惹かれても不思議ではない。
弟ではなく、一人の男性として見ていたのかもしれない。
それは、おそらくプラトニックで、片思いに終わってしまったけれど…
いや、木下の立場からすればどうだったろうか?
無頼派の逗子開成中学生らしく、二十一ともなれば、女性関係もそれなりに経験していてもおかしくない。
錫子を弄ぶというのではなく、あこがれの女性として恋心を抱くことはあったのではないだろうか?
そして一度くらいは、肌を重ねることがあったのかもしれない。
肺を病んだ刹那的な処女、その聡明で、姉のように優しくしてくれる先生…男性なら惹かれないわけがない。
本当のところはまったくわからないのである。
本書では、石塚巳三郎(逗子開成中学教諭)が本件の監督不行き届きを問われ(実際には問われていないが、世間の目がそういう雰囲気であった)、学校に居づらくなり、辞職して岡山に行き、畑中家に婿養子になって改姓することで再出発することになった話から始まる。
石塚巳三郎教諭の息子、畑中某氏が、父親と事故の関係を調べていくうちに、逗子が舞台である徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』を通読してみようとした動機が語られる。
今では、世間では忘れ去られた『不如帰』だが、出版された当時はとても、もてはやされた家庭小説だったのだ。今でいう「ベストセラー」である。
『不如帰』は、実在の大物政治家「大山巌」と思われる男の息女と、ある海軍下士官の悲恋の物語であるそうな。つまりゴシップ小説なのである。
私も一度読んでみようと『不如帰』(岩波文庫)を手に入れたが、まだ読んでいない。
さて『七里ヶ浜』だが、宮内寒彌(かんや)の著作となっているも、彼が畑中某氏に取材した形をとっている。
畑中氏の父、石塚巳三郎教諭が、生徒遭難事故の責任者として鎌倉を追われ、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出、とある巡礼者の老人のつてで岡山に教職を得、土地の豪農だった畑中家に入り婿し、長男の畑中氏が生まれるが、巳三郎はその退屈な生活に飽き足らず、サハリンに一家で引っ越すことになるまでの、畑中氏の生い立ちと、畑中氏が、父親の逗子開成中学での足跡と事故の真相を追い、それによって巳三郎が『不如帰』を愛読していたのではないか?という疑問が湧き、それが三角錫子の悲恋とつながっていったのではないかという推論に達するのだった。
というのも、巳三郎が、畑中氏が中学生のとき、それは樺太での生活の中でのことだったそうだが、氏に文学作品を読むことをきつく禁じたことがあったらしい。
なにゆえ、父がそこまで文学を毛嫌いするのか?
学業の邪魔になるという理由だけでは、畑中氏も納得がいかなかった。
そこには、独身時代の巳三郎の体験に何かあるとみたのだった。
それが『不如帰』であり、そのヒロインが肺病の喀血を繰り返して亡くなっていくのと、三角錫子の療養生活と重ねていたからではなかろうか?
※『不如帰』のホトトギスという鳥は、口の中が真っ赤で、喀血をイメージさせる。正岡子規がの号も「ホトトギス」であり、彼が始めた俳句雑誌「ホトトギス」も子規が肺病を患っていたからだという。
では三角錫子と、畑中氏の父、巳三郎はどの程度の関係だったのだろうか?
影響されるほどの「岡惚れ」を巳三郎はしていたのか?
畑中氏が調べたところ、独身の巳三郎に縁談を持ちかける同僚の三村栄一教諭(体育)がいたのだった。
その縁談の相手が三角錫子だったというのだ。
また、まんの悪いことに縁談を持ちかけられたその日に、あの遭難事故が起こったのである。
縁談話は立ち消えになり、巳三郎にとって、それどころではなくなったのだった。
巳三郎は、息子の口からも「男前」とは言えない、背の低い貧相で気難しい変人だったらしい。
変人だからこそ、その後、奇行とでもいうべき樺太移住を、養子の身でありながら、皆の反対を押し切って決行したのだろう。
あの事故がなかったら、三角錫子と巳三郎は所帯を持っていただろうか?
それはわからない。
ともかくそうならなかったから、今の畑中氏があるのである。
三角錫子はその後、鎌倉女学校を辞し、東京に移り住んで、教鞭をとり、ついに常盤松女学校の初代校長になるのだった。
巳三郎とは、天と地の差の出世ぶりである。
この本の注目すべき点は、事故の周辺を畑中氏が調べ上げることで、事故のカッター『箱根号』の由来、海軍と逗子開成中学の関係性、『不如帰』から大山巌陸相と大陸(満州)政策との関係、カッター(手漕ぎボート)訓練の詳細、「逗子」という地名の由来や、鎌倉の歴史までもが詳しく述べられていることだ。
畑中氏は海軍の経験があり、カッターには大きさによって、いくつかあるらしいこと、オールとクラッチ(オール受け)、ダビッド(カッター懸架柱)などの専門用語にも説明があった。
事故を起こした「箱根号」というカッターは、海軍練習艦「松島」に搭載されていたものを払い下げられたもので、徒(あだ)やおろそかにはできない代物であった。
言わば、天皇陛下から下賜されたも同然の恐れ多いカッターだったのである。
逗子開成中学の不良学生たちが「無断」で、このカッターを持ち出して荒海に漕ぎ出でた行為は、生還したとしても万死に値する罪だったのである。
ゆえに、巳三郎ら教諭の監督不行き届きは、不問だったにもかかわらず世間では教員への風当たりが強かったのである。
亡くなった学生の家柄が海軍のお偉方たちだったのも影響しているだろう。
逗子開成中学は海軍の息のかかった、士官養成学校の意味があった。
私には、とても有意義な読書だった。いろんな知識を吸収できたからだ。
参考資料も豊富であるものの、もはや本書の再版は予定されていないだろう。
「七里ヶ浜の哀歌」も歌われることはないかもしれない。
七里ヶ浜からすぐの江ノ島の岩場で、太宰治が心中未遂をしでかし、女は死んでしまい、太宰は生き残ってしまったという事件にも触れられている。
七里ヶ浜は、なにやら、因縁のある場所のようである。