福島正実
福島正実(ふくしままさみ:1929~1976)というSF作家がいた。
もうずいぶん昔の人だ。
彼の代表作に『リュイテン太陽』というのがある。
日本のSF 作品では古典に入るかもしれない。
今となっては、いささか、内容に物足りなさを感じずにはおれませんがね。
『リュイテン太陽』は短いが、非常に「硬派」な作品で、富野由悠季(とみのよしゆき)に通じるものがあるんです。
そう『ガンダム』的なんですよ。
少なくともあたしは、そう思った。
というか、先に福島の作品に出会っていたので、『ガンダム』が放映された時に「やっと、本物のSFがアニメにやってきた」と思った。
もちろん『宇宙戦艦ヤマト』のほうが先で、あちらはスペ・オペ(スペース・オペラ)アニメの先駆のようなものだったけれど。
実は福島正実は『SFマガジン』の初代編集長であり、日本でSFを文学として持ち上げた立役者と言える。
早川書房に参加し、自らも執筆し、歯に衣着せぬ評論で、当時のSF文壇を激しく論破した人でもある。
そして彼は、スペ・オペを過小評価していた。というより嫌っていた。
あたしは、どちらかというとスペース・オペラが好きで『キャプテン・フューチャー』とか『宇宙海賊キャプテンハーロック』をよく観ていたほうだ。
さて、福島正実である。
かれが、こきおろしたSF作家には、小松左京、筒井康隆、豊田有恒、星新一などなど、のちの大作家が名を連ねる。
「覆面座談会事件」として、古いSFファンには記憶に残っているだろう。
あたしの世代ではないけれど、SF好きの先輩らは、よくこの話を酒の席でしてくれたものだった。
それほどセンセーショナルな事件であり、福島は、こきおろした彼らとはその後、没交渉のまま早逝してしまう。
「福島、おまえこそ何様(なにさま)のつもりだ?」と、SF作家たちから言われたままこの世を去ったのだった。
あたしは、しかし、いやしくも文学と呼ばれるためには「批判にさらされる」洗礼を受けなければならないと思う。
文学は世に出た時から、批評され、こきおろされ、無残に打ち砕かれる運命と背中合わせなのだ。
こういう武勇伝からも、福島正実が「硬派」な人柄だと感じさせられる。
『リュイテン太陽』は少年向けに書かれたSF小説だけれど、戦後民主主義と超人種的なグローバルな若い人材が宇宙に飛び出して、活躍し、煩悶し、大人になっていくという、しごく真っ直ぐな作品なのだ。
あたしなどは、気恥ずかしくなるくらいだ。
ジュブナイルにはうってつけの作品だと思う。
振り返って、あたしがアダルト作品を書くにあたって、福島ならどう言うだろうとありえぬ妄想を抱かずにはおれない。
唾棄するだけだろうか?
それとも、「覆面座談会」の彼のように、真剣に批評してくれるだろうか?
「ヨコヤマナオコの場合は一口で言うと、仏(ホトケ)作って魂入れずというところがある」
「彼女は初期のナイーブさがなくなって、小説としてはむしろ退化している」
「変な軽薄さが出て一般受けするキライがあるね。そういう形にすれば、誰でも喜んでくれる、面白がってくれると高をくくってる感じでね。ところが話しの流れがどう流れていくか、読者にはみんなわかってしまうから、面白くもなんともない」
「いま彼女が書いているものは、きっと、あまり残らないと思うな」
「作品は彼女の現実逃避なんだ。しかも、それを彼女は知っていて平気なんだ。そこがイヤだね」
「通俗の極みだよ。文章に品がないし」
「層の薄いアダルトの世界で、こんな人がいると、全体の株を下げるんじゃないか」
「アイデアがあまり簡単にできちゃうのは、直(なお)っていないな。思いつき的でさ」
「それがまた既成のアイデアだ。すでにある作品にヒントを得ていて、すぐ書いちゃう。あれはいかんね」
なんて、手厳しく言われるだろうな。
わかってるんですってば…あたしだって。
※以上のコメントは実際に福島正実の企画した「覆面座談会」で小松左京、筒井康隆、豊田有恒に投げかけられたものをあたしに置き換えてみました。