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ドツボにはまる

年末に職を失うとは、まさに「ドツボにはまった」と関西で言う状況である。

このような不幸を笑い飛ばす風土が関西にはある。ちなみに「ドツボ」とは「肥溜め」のことであり、それでわからない若い人々には、その昔、農家では「下肥(しもごえ)」といって、うんこやおしっこを「ぽっとん便所」から桶にくみ出して(いわゆる「くみ取り」)、田畑の一角に設けた「池」に溜めて発酵させてから畑にまいて、肥やしにしたわけで、その下肥を一定期間溜めておく池を「ドツボ」と言ったのだった。

そんな「ドツボ」にはまるというような、最低の事件になぞらえて人の不幸を笑うのが関西、なかんずく大阪の人々の文化だった。

私の親から聞いた話では、ドツボに本当にはまったら、名前を変えないといけないくらい、その人の人格は否定されるそうだ。つまり、生まれ変わらないと生きてけないほど、もっと言えば、いったん死なないと許されないような大事件なのだそうだ。

というわけで、失業などドツボにはまった事と比べたら取るに足らない事件なのである。

思えば幼いころから、利息制限法違反の「トイチ」で友人に金を貸したりしていた大阪の子である。私だってそれが普通だと思っていた。ポケットにサイコロを忍ばせて、なんでも賭ける。いんじゃん(じゃんけん)も、べったん(めんこ)も真剣勝負だった。酒瓶の蓋ばかりを集めてカッチンという勝者総取りのゲームとか、ビー玉も、勝負がエスカレートして殴り合いになったり、天辻鋼球という工場に忍び込んで鉄球(ベアリングの玉)を盗み出し、それで相手のビー玉を破砕してしまう乱暴者まで現れる始末。

ちなみに私は「株式」をやらないが「カブ」は、やりまっせ。カブ札ってのが任天堂あたりから出ているけどトランプでやるね。

大人だって花札や賭け将棋に余念がなかった。縁台将棋で人だかりができていたら、賭けているはずだ。

子供たちは、お葬式探りに熱心だった。「もうじき、田中さんとこの爺さんヤバいらしいで」と教室でささやかれる。そして期待通りに田中さんの爺さんが息を引き取ったと親から聞くなり、子供たちは三々五々と集まって、告別式に「参列」する。すると、喪主から子供らにキャラメルが一箱ずつ振舞われるのだった。それ目当てに鼻たれ小僧たちが葬式に群がるのである。葬式も子供たちにとっては立派なイベントだった。

小学校の3,4年生ぐらいまでは銭湯では男の子も女の子も裸で、男湯女湯を行き来していて、大人も何も言わなかった。

親の「伝令」を頼まれるのはそう言った年恰好の子供たちだった。私もこのnoteで「銭湯こわい」の記事で書いたが、母と女湯に入っていると、隣の男湯から父が「なおこぉ、シャンプー持ってきてくれ」と呼ばわることがあった。わたしは仕方なく母から預かったシャンプーを持って男湯に向かったのである。

まんが悪いことに、ガキ大将兄弟とその腰ぎんちゃくの男の子と鉢合わせしたのだった。「なんやお前、ちんぽないくせに男湯に入ったらあかんやんけ」となじられる。私は「ない」のだった。無賃乗車を咎められた乗客の心境だった。明らかに「無チン」だったから。ガキ大将の弟が「入ったらあかんやんけ」と、ちっさいのを突き出してくる。「こんなんでもええから、あたしについてたら、言われんでも済むのに」と心底、思った。大人たち(当然男たち)はこの会話を聞いて噴き出している。父も笑って近づいて「なおこ、はよ帰り」とシャンプーを受け取って行ってしまった。「お父ちゃんも敵やった」

私は「丸腰」の「一兵卒」の気分で、四面楚歌の男湯を後にした…こうして、私は二度と男湯には行かなくなったし、父も忘れものをしなくなった。

いろいろあって、子供は大人になっていく。

あの頃の私が、この歳になって、体の不自由な夫を抱えて、職を失っているとは考えもしなかっただろう。人生いろいろだ。

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