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内野聖陽さん演じるこまつ座の芭蕉通夜舟を観た日記(ネタバレあり)

 内野聖陽さんが松尾芭蕉を演じる、こまつ座の「芭蕉通夜舟」を観てきた。

 内野さんを初めてみたのはNHK朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」だった。
何か用をしていたのだろう。テレビに背を向けていた私はとんでもなく魅惑的な声に驚いて振り返った。声の力で人を振り向かせる人は滅多にいない。
 テレビ画面には初めて見る俳優さんがいて、主人公の女性に語りかけていた。何を言っていたか、どんな場面かは全く覚えていない。けれど、少し薄い唇と口元の黒子、そして何とも言えないほど魅力的な声とともに内野聖陽という役者さんを私はしっかりと覚えた。

 そのドラマで人気が出たらしい内野さんは「ミセス・シンデレラ」というドラマで薬師丸ひろ子さんと恋に落ちていた。
 薬師丸さんのデビュー当時からのファンだった私はリアルタイムで視聴していたが、何というか、文鳥と戯れる(出会いは確かそんな感じ)センシティブな音楽家(ピアニストだったかも?)という設定に内野さんの芯の野太さとそこはかとないインテリ風味があまり似合わない気がして尻こそばゆいという感覚を味わっていた。
 夫と姑に粗雑に扱われている主婦と世界的音楽家が恋に落ちるというそのドラマで記憶に残っているのは、公園のベンチ(だったと思う)で文鳥と無邪気っぽくイチャコラしてる内野さんと、お風呂の壁の水滴を掃除している薬師丸さんの家庭感溢れる姿だけだ。
 
 その後ホラーファンの私は内野さんと大竹しのぶさん主演の「黒い家」を、高校生らしきお二人と一緒にシネコンで見た。
 当初上演シネコンブースには私一人しかいなかった。
 いくらホラーが好きでも一人で見るのか? 暗闇大丈夫か? などと帰ることはできないのに微秒に中腰になっていた時、上演開始ギリギリになって二人の高校生がドヤドヤと入ってきた。
「ヤバい! 誰もいねぇ!」
「あ、一人いた!」
「すげぇな!」と、はしゃいぐ声に私は安堵し、見知らぬ高校生たちに深く感謝しつつ腰を落ち着けた。(その節はありがとうございました。)
 スクリーンの中で、大竹しのぶさんに粘着パワハラされてちびりそうなほどびびっている内野さんはとてもイケていた。
 作り込み系の濃い演技される内野さんは(脚本は何度も咀嚼して食べるというような意味合いのインタビューを読んだ)、同じく濃い芝居の大竹さんと相性が良かった。 
 余談だが大竹さんは、成り上がり系の少し品のない役がよく似合うように思う。 
 
 その次に彼を記憶しているのはミュージカル「エリザベート」の死神トートだ。
 おそらく生涯忘れることがないだろう驚愕のぶっ飛び歌唱だった。前列5列目で観劇した私はそのド迫力と、上手いとか下手とかの判断を許さない豪速球の歌いっぷりに頭が真っ白になり、ただただ彼を見つめ続けた。
 あえて例えるならば、ヘルメット・エルボーガードandフットガードを全て装着せずに藤浪晋太郎が(球の行方は球に聞いてくれとばかりに)手加減せずに投げ込んでくる打席に立つ気持ちといったところだろうか。

 そんなこんなで結構内野さんを見ているわけだが、今回もまたコッテリした内野さんだという印象だった。
 『全三十六景、歌仙仕立てに作られた内野聖陽のほぼ一人芝居』との説明どおり短いスパンでどんどん芝居の場面が変わっていく。
 ひどい便秘症に悩む芭蕉が厠で頑張るシーンが何度も繰り返されるが、芝居っけたっぷりに演じられるので特に抵抗はない。文机が便器になったり、背荷物になったり、また机に戻ったりという使い方は面白く、内野さんの軽快な操り振りが見事で目を奪われる。途中でカエルの合唱を口ずさむがこれがまたいい声で聞き惚れずにはいられない。ずっとカエルの合唱を歌っていて欲しいぐらい。
 気になったのは朗誦役の若い四人の役者さんの今風のカジュアルな衣装と、彼ら彼女らと内野さんの芝居の質感が違ったことだが、これは年齢よりもキャリアの違いが大きいのかもしれない。
 素人感想だが、朗誦役の衣装は最終場面の黒衣の方がしっくり見えた。

 全体的に芭蕉の生涯というより、芭蕉にことよせた脚本家の苦悩が根底に存在していたように感じた。
 最終場面、芭蕉の棺が乗る通夜舟の船頭が語る「立派な俳人が言う俳句の極意」は芭蕉がずっと否定してきたものだったのは皮肉であり、哀れであり、船頭の意気揚々とした悪気のなさが可笑しくもある。
 同時にこの場面に、脚本家自身の苦悩が溢れ出でた。
 生み出したものが理解されない、伝わらない、もしくは歪んで伝わり、良くも悪くも誤った評価を受けることへの苦しさと怒りを、時に井上氏は歯を食いしばって耐えていたのだろうか。商業として成り立つものと書きたいものとの間でのたうち回っていたのだろうか。
 ならばそれまでの語りは全て、この通夜舟の場面のために存在したようにも思われる。

 ただもともと芭蕉をよく知らない私には、この舞台の面白みがあまりよくわからず、途中はなかなか辛かった。
 なぜ芭蕉はいつも厠でいきんでいなければならないのかとか、男女の睦言をのぞいて人間味を醸し出さなければならないのかとか、本当に感覚的にわからなかったのが正直なところだ。
 多分これは文章を理解するために読解力が必要なのと同じで、演劇も見る側の力というのが必要だということの証左だ。
 
 今回私にはその力がなかったと素直に反省して、この日記を締めることといたします。


 ※イラストACのフリー画像を使用しています。

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