#13 一時帰国の悦びと戸惑い
以前、このnote に当地、ホーチミン市の歩道を歩いていると、敷き詰められたタイルから跳ね水が飛び出ることがあり、足元や、ひどいときには顔まで汚れるといった話しを投稿したかと思います。2024年7月現在、当地は雨季の真っ最中であり、この陥穽にはまってしまう方が多いのではないかと想像されます。
かくいう私も相変わらず、しばしばこの被害を被っておりますが、先日、出張で当地に来られた方も、市内案内を私が承り、二人で街中を散策していた折に甚大な被害に遭われておりました。
その方が履かれていたのは、事もあろうに純白の、それらに疎い私でも知っているような運動靴メーカーの新品の靴でした。その靴がタイルからの跳ね水により、側面は見かたによっては意匠のような、上面は鳥の糞が落ちたかのような、こちらは明らかに泥水とわかるシミがその純白の運動靴に刻まれてしまいました。
当然のことながら、当人は大変にその汚れを気にされており、そして、こちらもまた当然のこととして、この場合に何とかするのは私の役割であり、急いで洗濯屋を探すことになるのであります。
当地では洗濯機の普及率は70%を超えているとのことで、多くの方々は自宅で洗濯をされているとは思いますが、にもかかわらずそこかしこに洗濯屋があり、服や下着はもちろんのこと、靴の洗濯も受け付けている店舗が多くございます。さらには、最近のお洒落な若者からの需要からなのか、靴専門の洗濯屋までございます。
そして、洗濯屋については私は何度も利用しており、その勝手たるや十分といえるほどには理解しており、洗剤の匂いが強く残ってしまうお店、アイロンのかけ方が丁寧なお店などの知見もございます。しかし、靴については現在に至るまで店舗で洗ってもらった経験がなく、これだけ汚れてしまった靴を綺麗にできるお店の情報は持ち合わせておりません。
ともうしますのも、私は少し前まで運動靴というものを所持しておらず、仕事用の革靴にサンダル、ビーチサンダルの三足で履物をまかなっているという事情がございます。
ともうしますのも、運動靴だと暑いという理由もありますが、何より雨季の時期は歩いている際、バイクの走行中に突然の豪雨に見舞われることがしばしばございます。歩きの際は家や店舗の軒先、またはカフェに避難し、バイクに乗っているときは雨合羽を羽織り、服が雨に濡れないよう対策を講じるわけですが、いずれの場合においても足元は濡れてしまいます。
もちろん服も多少は濡れることになるのですが、当地の雨は長時間降り続けることは稀であり、すぐに日が差してきます。ですので、服であれば多少濡れた程度であればすぐに乾くのですが、靴となるとそうはいがずに、なかなか乾かない靴を履き続けることになってしまいます。
さらにホーチミン市は坂がほとんどなく、平均標高が5m〜10m ほどという地形です。それに加え川が多い土地ゆえに、ちょっとした大雨が降るとそこらじゅうの道路は冠水してしまいます。
そのような土地にあって、若者やお洒落な方ならいざ知らず、私のような身につけるものは清潔であればなんでもいいという中年男性にとっては、靴ほど面倒で気を遣う履き物はありません。ですので、濡れてもすぐに乾くサンダルやビーチサンダルの方が重宝されることは必然で、結果として運動靴が不要となるわけです。そして、革靴は持っているとお伝えはしましたが、当地においてそれを履くことはほとんどなく、出張で日本に行く場合のみ足を通しております。
さて、話しは出張者の方の汚れてしまった靴に戻りまして、とりあえず近所にスーパーマーケットがあったのでそちらでサンダルを購入し履き替えていただき、以前に何度か利用したことのある洗濯屋へとタクシーを手配します。
店舗に着くとさっそく靴を見せて、汚れを落とせるか確認をするのですが、受付の若い男性は当然とばかりに預かり証を記入して翌日に取りに来るように告げてきます。いわれた通りに翌日に受け取りに出向くと、すっかり綺麗になった靴を渡され、出張者の方はその仕上がりと値段に満足され、店を紹介したものの一抹の不安をいだいていた私も、その仕事ぶりに面目躍如となるのでありました。ちなみにこの時の料金ですが、40.000 VNDか50.000 VND(2024年7月のレートで、250円〜310円)であったと記憶しております。
さて、このように運動靴については洗濯屋にて綺麗にすることができるのですが、では革靴の場合はともうしますと、街中には靴磨きを生業としている方が多くいらっしゃいます。最近ではその方々の数は減っている気がしますが、靴磨きの道具一式を持ち、お客さんを探してカフェや飲食店を巡り歩いていますので、いつでも靴磨きをお願いすることができます。
そして彼らは靴磨きはもちろんのこと、運動靴の簡易洗浄から各種履物の修理まで対応しており、私も日本への出張を兼ねた一時帰国の際は、滅多に履かずに埃を被ってしまっている革靴の手入れから、踵がすり減ってしまったサンダルの修理などをお願いしております。
さて、そのように普段靴を履かない生活をしておりますと、一時帰国の際に革靴を履く必要が生じることは非常に苦痛であったりします。足が窮屈なことに加え、駅など人が多い場所においては、周囲の流れに合わせて平素より歩速を上げざるを得ず、締め付けられた足でこれをおこなうことは大変なストレスとなります。結果、履き慣れないゆえに靴擦れが生じ、常に絆創膏を持ち歩く羽目に陥るのです。
これ以外にも一時帰国の際は、当地で生活を始める前には当然であったことができなくなったり、あらゆる変化に驚かされ、そして感動することが多々ございます。
特にこれを痛感したのがコロナ禍明けの約三年ぶりの一時帰国の際で、このときは様々なことに当惑し、驚いたものであります。たかが三年で大げさな、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、世は諸行無常、霊長類の長である人類は日進月歩であり、しかるに、かような現代社会において三年という年月は、海外在住者の一人を浦島太郎にしてしまうことなど造作もない時間なのです。
コロナ禍明けの日本でまず驚いたのは、まずは私の出身地の最寄駅であり、かつては日本のサグラダ・ファミリアともよばれ、常に工事を続けていた横浜駅が完成していたことです。正確にはまだまだ未完成の場所もございますが、なにせ数十年間工事をしている状態しか見たことがなかったので、ほぼ完成した姿を目にした際は、間違えて違う場所に来てしまったと思ったほどでありました。
そして、以前は駅の改札口と横浜駅西口の地下街を行き来する際には、まずは階段なりエスカレータを上り地上に出た後、あらためて階段なりエスカレータで下る必要があったのですが、気がつけば駅から地下街まで直結されております。ちなみに、私はこのことにしばらくの間気がつかず、昔ながらの道順で地下街と駅改札を行き来しておりました。
そして次に驚いたのは、コンビニエンスストアなどで働いているベトナムの方が増えていたことです。顔を見ると見慣れた顔つきの方が多く、気になって名札を見ると明らかにベトナムの名前だったりするわけで、日本に戻ってきたのか、はたまた、未だベトナムにいるのか混乱いたしました。
さらにコンビニエンスストアでは支払い方法が変わっており、以前であれば計算をしてもらい現金やカードでそのまま支払えばよかったものが、レジに設置されたパネルで支払い方法を選択し、現金も直接手渡すのではなく、レジの機械に入れるようになっております。
はじめてこのタイプのレジでお会計をした時は対応方法がわからずに挙動不審な振る舞いをしてしまい、ベトナム名の名札をつけた女性スタッフの方に笑われてしまいました。これはなにかやり返さねばということで、私の拙いベトナム語で店員に話しかけ驚かせようとするのですが、最初こそ驚きはするものの、自分の母国語を話す日本人に嬉しくなったようで、仕事中にもかかわらず質問責めにあうことになります。そして最後には、ベトナム語で会話ができたこと、日本人がベトナム語を話すことに感謝され、なにかをやり返すという目的は達せられずにすごすごと退店いたしました。
さて、そのように驚くこともあれば、当然ながら日本の長所にも感心させられることひとしおであります。
まずは、なにを差し置いても街が綺麗で静かなことに安心させられます。ニュースなどで目にしていた、コンビニや売店などでアルコール飲料を購入し、公共の場でそれを飲む、『路上飲み』のゴミ問題は確かに目にしましたが、ホーチミン市のポイ捨ての状況に比べれば可愛いものでありました。誤解なきよう念の為お伝えしますと、もちろん私は『路上飲み』によるゴミの放置に同意しているわけではございません。
そして静かなことについてですが、これは言わずもがなのことでありますが、クラクションの音を耳にすることがほぼございません。さらには横断歩道を渡る際には歩行者を優先して車やバイクは停車してくれますし、ましてやどこかの国のごとく、クラクションを鳴らして自分が先に通行しようなどという運転者は一切いらっしゃいません。私などは、あまりにも歩行者を優先してくれるので悪い気になってしまい、停車してくれている車両がある場合などは、その都度横断歩道を走って渡り疲れてしまいます。
また、歩道のない狭い道路を歩いている際に、いつの間にか自分の後ろをゆっくりと車が走行しているのに気づき、驚いて飛び上がりそうになることもしばしばです。大変静かな走行音のハイブリッド車だと思うのですが、決してクラクションを鳴らさずに、歩行者を追い越せる場所まで徐行するマナーは世界に誇れる美点ではないでしょうか。
また、車道、歩道を問わずに卒なく整備された道路は歩きやすく、バスやタクシーに乗っても凹凸による衝撃を感じることがほとんどございません。
そして、歩道には隈なく視覚障害者の方のための誘導用のブロックが設置され、バリアフリー化にも抜かりがございません。
以前にベトナムから来られた方と日本国内を旅行したのですが、どこに行っても存在するこの誘導用のブロックについて、如何なる理由から設置されているのかを問われたことがございます。理由を説明すると得心され、同様に目の不自由な方が多いベトナムもこのようにすべきであるとおっしゃっておりました。
なるほど、ホーチミン市では頻繁に目の不自由な方を見かけるので、もっともな意見だと思うのでありますが、どうもこの徹底された誘導用のブロックの設置に、日本は特に目の不自由な方が多い国であるとの誤解を生んでいるようでもありました。
最後に、一時帰国の際には、いつも四季の変化の美しさに感動させられます。
春の桜、初夏の新緑、夏の空に秋の紅葉、そして冬の雪景色と、言わずもがな日本は四季折々の景観を楽しむことができます。これは季節の変化に乏しい国の方々にとっては驚くべきことであり、また憧憬の念を抱かせるのに十分な魅力でもあります。
私も一時帰国の際には、このことに改めて気付かされ、そしてそれを楽しむのですが、ただ、この年齢になると夏の暑さと冬の寒さには苦労をさせられます。
日本より遥か南方の国で生活しているのに暑さに弱いとは何事だ、などと誹りを受けるかもしれませんが、ホーチミン市の暑さと日本の夏の暑さでは、その性質が全く異なると感じています。
ホーチミン市の緯度は11度、対して東京都は36度であり、0度である赤道に近いホーチミン市の方が暑いと思われるのは当然のことで、私も友人や知人から、「ベトナムは日本より暑いでしょ?」といった質問をよく受けます。これはベトナム、ホーチミン市についてよく受ける質問の一つであり、日本の夏の方が遥かに過ごしにくい旨を告げると、大抵の場合この回答に驚かれます。
確かに日中の日差しの強さに関してはホーチミン市のそれは日本と比べて強く、特に乾季の終わりである3月から4月にかけての暑さは骨身にこたえ、体調を崩される方もいらっしゃいます。しかし、乾季の真っ最中である12月の朝などは肌寒さを感じることがあり、また雨季であれば雨上がりは涼しく、特に日中に大雨となった夜などは大変に快適な気温であり、場合によってはこちらも肌寒さを感じます。
対して日本、この場合は東京の夏に限定させていただきますが、日中の日差しとまとわりつくような湿度と、夜になっても気温が下がらず風も無い熱帯夜には、歩くのも嫌気がさしてしまいます。
そして冬の寒さですが、こちらは今年、2024年の2月に実際に体験した話しがございます。
ベトナムは旧暦が採用されている国であり、日本の正月である1月1日は休日ではあるものの正月ではありません。2024年は新暦の2月10日が旧暦の1月1日となり、この前後の期間は祝祭日の少ないベトナムにおいて最も長い連休となります。ですので在越の外国人は、この時期に旅行や一時帰国と出国される方が多く、私も毎年この時期には海外旅行に出かけております。そして今年はちょうど札幌の雪まつりの開催期間でもあったので、ホーチミン市内のロシアンマーケットにて防寒着を買い揃え、北海道旅行に行くことにいたしました。
雪まつりの時期であるわけですし、当然北海道は寒いことは認識しておりましたが、冒頭でお伝えしたとおり私は靴といえば革靴しか持っておらず、防寒着は買い揃えたものの足元についてはすっかり失念し、まさか革靴で旅行に出かけるわけにもいかずにサンダルで新千歳空港に降り立つことになりました。
サンダルに靴下という格好ではあるものの、当然空港内は暖かく、これに勘違いをした私は、これなら外に出ても靴下を二枚重ねで履けばなんとかなるだろうとの愚考にいたります。
そして、その後実際に札幌の街を散策するのですが、寒さは感じはするものの、多くの歩道が雪かきされていることも手伝ってか耐えられないほどではございません。
これは何とかなるだろうと翌日は小樽観光に出向くのですが、札幌市内とは異なり多くの雪が歩道には残ってはいますが、まだなんとかなります。そして日が暮れて一通り観光を終えた頃に事態は一変します。
その日は朝から曇天の空模様で、観光には残念な天気であったのですが、特に雪が降るわけでもなく、十分に楽しむことができました。
しかし、札幌市内に戻ろうと思った頃からちらちらと雪が舞いはじめ、駅に向かい歩き始めた頃には風も加わり吹雪となります。
当然足元は濡れそぼつこととなり、寒いとか冷たいを遥かに通り越し痛みを感じ、歩くのも困難となります。それに加え小樽運河から小樽駅までは坂道が続き、吹雪のために前方の視界も悪く終着点を視認することができずに、遭難したのではないかとの錯覚に陥ります。
大変に不謹慎ではありますが、八甲田山雪中行軍かくあれやなどと雪国の恐ろしさを噛みしめ、ほうぼうの体でなんとか駅にたどり着きます。
そして、凍傷になるのではないかと思われる足を電車の暖房で暖め、札幌市内に戻るわけですが、ここにいたり、ようやく運動靴を購入する決意を固めるのでありました。
翌日、幸いにも凍傷という大事にはいたらなかった足を再びサンダルに通して靴屋を目指します。札幌市内は雪まつりの時期だったこともあってか、外国からの旅行者が多く、靴屋にも多くの観光客の方々がいらっしり、あらためて北海道、日本旅行の評価の高さを窺い知ることができました。
そして、店員の方から、この極寒の地においてサンダル姿の中年男性に怪訝な目を向けられはしたものの、何足か試着をさせていただき、その後会計となるわけですが、なぜかレジ担当の店員の方より「Do you have a passport?」とたずねられます。私は英語に関してはかなり苦手意識を持っており、実際そのとおりなのですが、この程度の英語なら十分に理解できます。「Yes」などと返答しパスポートを店員の方に渡すのですが、すると相手は驚いた表情をみせ、慌てたように謝罪をしてきます。私自身何か違和感はあったものの気づかずにいたのですが、店員の方の謝罪によりようやく事の次第を理解いたしました。
さて、手痛い出費はあったものの、その後は快適に北海道旅行を楽しむことができましたが、「Do you have a passport?」の質問をうけたことについては痛恨の思い出となりました。
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